「この雨じゃ、桜も散ってしますわね。皆は大丈夫かしら」
「一応、雨の対策はしてあるが、……こう強く降ると不安だな」
宿の玄関には、同じように雨で足止めされた人々が不安げに外を眺めつつ、この雨について語り合っていた。
「困りましたね・・・。明日には着くと言っておいたのに」
「二〜三日は降るそうですよ」
鳩羽は行商人らしき男に外の様子巣を尋ねている。妖ノ宮はぼんやりと雨に煙る表を眺めていた。と、その向こうから、宿に飛び込んでくる人影があった。宿の女将が驚きの声を上げる。
「おやまあ、数奇若様!ずぶぬれじゃありませんか!」
「心配しないで、女将さん、奥には行かないからさ」
全身から雫を滴らせながらも平気な顔で、数奇若は宿の中を見回した。妖ノ宮は彼に駆け寄る。
「あ、姫様!こっちにいたんだ」
「どうしたの、数奇若。私達は無事よ」
「良かった。あのさ、沢渡さんが雨が止むまでゆっくりしてていいって。こっちは心配要らないからって伝えてくれってさ。一応、居場所も確認しておきたかったし」
奥からばたばたと足音が響き、手拭を持った女将が走り寄ってきた。
「数奇若様、せめて体をお拭きなさいな。暖かいお味噌汁とお着替えも用意しておきますよ」
「ああ、着替えはいいよ。すぐまた出るんだし。昔っから雨の日でも普通に遊んでたから、これぐらいは平気だよ」
鳩羽も数奇若を見つけ歩み寄ってきた。
「雨の中ご苦労だった、数奇若」
「いえ、ご無事で何よりです。俺はすぐ帰りますが、傘をもお持ちしましょうか?」
「いや、構わない。馬があるからな。姫を連れて出られるようになるまで、ここで待つ」
「ありがとう、数奇若。皆に私達は大丈夫だと伝えてね」
妖ノ宮が差し出すまんじゅうを受け取り、
「あ、これはあの店のだね。大福も美味しいから、食べてみなよ」
女将の持ってきた味噌汁を飲み干すと、数奇若は雨の中へ消えていった。
廊下の奥から賑やかな話し声が聞こえる。
障子が大きく開け放たれて、大勢の人が集まっているようだ。人だかりの中に妖ノ宮の姿を見出し、鳩羽はその部屋の中へ足を踏み入れた。
雨に降り込められて退屈しているのだろう。客ばかりでなく宿の女中も集まって、中心にいる行商人の講釈に耳を傾けていた。
行商人は光沢のある布や小さな装飾品、異国の品と思われる見慣れない品などを広げて、熱心に売り込みを行っている。
妖ノ宮も好奇心に瞳をきらきらさせて、それらの品に見入っていた。
行商人は小さな細長い布を取り上げた。鮮やかな赤い絹布。蝋燭の明かりを受けてきらりと光った。布の端には、白い糸で複雑な文様が描かれている。
「これは異国の姫君も愛用する髪飾りにございます。上質の絹地に、ご覧ください、この見事な刺繍を!これは異国の技にございます。これほどの品はめったにございません」
格別に女人の気を引くものらしく、集まった女達はみな熱心に光る布を見つめていた。もちろん妖ノ宮も、。
「さて、この品が只今特別価格!なんと……」
「買おう」
鳩羽は懐から財布を取り出すと、代金を支払った。
「えっ?鳩羽」妖ノ宮が目を丸くして彼を見つめる。
「まいどあり!いやあ、旦那もお目が高い!」
受け取った紅布を妖ノ宮の手の平に載せる。うっすらと頬を紅潮させて彼女は、
「ありがとう、鳩羽……」と、呟いた。
雨はなお降り続く。庭の木々は流れ落ちる雨粒を受けて、緑のもやのように佇んでいた。
幸福そうに髪飾りを手に取る妖ノ宮は、また一幅の反物を腕に抱えていた。青くくすんだ色の、彼女にしては地味なものである。
「ああ、これ?――――あのね」
歩きながら妖ノ宮は説明した。
「しばらく戦は無さそうだし、これから鳩羽も部屋でゆっくりしていられる時間ができるでしょう?だからもっと気楽に着られる着物がいると思って」
長年の戦場住まいで、常に戦に出られる服装でいたことを、鳩羽は改めて認識した。
「そうか、ありがとう、妖ノ宮」
妖ノ宮は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「だって、私は鳩羽の妻になるのですもの」
その小さな手を取り、心地良いぬくもりを感じながら、二人並んで部屋に戻った。
雨に煙る緑の庭を眺めていると、コトリと軽く音を立てて、目の前に湯呑みが置かれた。暖かそうな湯気が立ち上る。
「桜餅と一緒に頂きましょう。美味しいわよ」
にっこり笑って薄茶色の葉に包まれた桜色の持ちを差し出す妖ノ宮。鳩羽は思わず微笑んだ。
「ありがとう」
微かに塩気を含んだ桜餅はほんのりと甘く、春らしい香りがする。茶も程よい熱さで、菓子の味を引き立てていた。
降りしきる雨を眺め、妖ノ宮が呟いた。
「よく降るわね」
「ああ、戦が終わった後で良かった。だが、城造りの方は少々遅れそうだな」
「そうね。でも、この機会にゆっくり休んだ方がいいわ。皆よく頑張ってくれてるけど、疲れていないか心配だわ」
思案顔の妖ノ宮に鳩羽は微笑んだ。
「皆喜んで働いているのだ。ようやく落ち着ける場所を手に入れたのだから」
妖ノ宮はじっと鳩羽を見つめた。
「それは鳩羽も同じなのね。昔と比べて、ずいぶん落ち着いたような気がするわ」
「そうか。この年になってやっとそのように言われるとはな。だが、こうなると老け込みはしないか不安だな」
妖ノ宮はつんと頭をもたげた。
「もう、まだまだこれからなんですから、いきなりお年寄りなってもらっては困ります。だけど、まだ色々問題は残ってるし、のんびりしてばかりもいられないわ」 華やかな笑顔を鳩羽に向ける妖ノ宮。
「そうだな。まだ戦いは続く。それもまた楽しき人生か」
間断なく続く雨の音、鉛色に曇ったままの空。それでも、二人はその向こうに晴れ渡る青い空を思い浮かべるのだった。
ふと奇妙な気配を感じて、妖ノ宮は目を開けた。まだ部屋の中は真っ暗闇。衝立の向こうからは規則正しい寝息が聞こえる。彼が起きていないということは、何か危険があるわけではなさそうだ。
そっと寝床を抜け出し、縁側に出た。漆黒の闇の中、雨音だけが響いてくる。外界から閉ざされた、鳩羽と妖ノ宮二人だけの世界。
陣地のことを気に掛けつつ、もう少しだけ、この時間が続いて欲しいと妖ノ宮は祈らずにはいられなかった。
さっと冷たい風が頬を撫でる。視界の隅を、何か白いものが横切った。妖ノ宮は素早くその方に視線を投げたが、何も見えはしなかった。部屋の中も静まり返ったままである。首を傾げつつ、妖ノ宮は部屋に戻った。
続く