「おはよう、妖ノ宮」
「おはよう、鳩羽! ねえ、見て!」
弾むような口調で妖ノ宮は言う。
「昨日貰った髪紐を付けてみたの! ――――変じゃないかしら?」
言われてようやく鳩羽も気づいたが、髪紐がいつもと違うようだ。
いつもの赤い紐の代わりに、赤い布が巻き付けられている。
真紅の絹は、美しく蝶結びにされ、白い糸が黒い髪の中で光を放っているようであった。
「ああ。よく似合っている」
少し風変わりな印象だが、いつもの髪紐よりも年相応の愛らしさが強く感じられた。
きらきらと輝く瞳のせいかもしれない。
「良かった。着物には合わないかもしれないけど、付けてみたかったの」
「喜んでくれたのなら、私も嬉しい。ああ、もう朝餉の時刻か」
「ふふ、もう一日居られるのね」
二人で朝食の膳を囲み、幸福な時間はゆっくりと流れる。
流れる雨によって外界から切り離された世界で、貴重な休息の時を噛み締めるのだった。
静かな雨音が屋根を叩く。
ふと、人の気配を感じて鳩羽は目を覚ました。
闇の中に溶け込むような黒い人影。
見を起こすと、鳩羽は緊張を解いた。
妖ノ宮だ。
だが、こんな夜中に一体どうしたのか。
「妖ノ宮? 何かあったのか?」
どさっと腕の中に重みがかかる。
混乱しつつ、妖ノ宮を抱きとめると、その全身が震えているのに気づいた。
「……外……」
「?」
「外に、何か、いるわ!」
「何を見たのか、落ち着いて話してくれないか」
妖ノ宮の話によると、夜半に目を覚まし、縁側に出てみると、何か白いものが庭を横切って行くのが見えた。
昨日も同じようなものを見たという。
鳩羽は枕元の刀を取り上げ、部屋の外を伺った。
開いた障子の向こうは静まり返っており、不審な気配は感じなかった。
廊下へ出ると、妖ノ宮が袖を引っ張る。
「待って、どこへ行くの、鳩羽」
「その辺りを見てこよう。妖が入り込んでいるやもしれぬ」
「危険よ! 妖退治は専門の者でないと難しいわ」
「だとしても、このままにしておくわけにはゆくまい。あなたがそれほど恐れるのなら」
妖ノ宮は気恥ずかしそうに俯くと、再び鳩羽を見上げる。
「わかったわ。でも無理はしないでね」
「ああ、あなたは部屋に戻っているといい」
「ここで見てるわ。何かあったら、大声出して人を呼ぶから」
障子の影から妖ノ宮が見守る中、鳩羽は廊下を慎重に歩む。
雨の降り注ぐ庭は暗くひっそりとして、動くものは何もない。
沈黙が続く。
奇妙な感覚を覚え、鳩羽振り返った。気配はない。物音もしない。それでも、何か異様なものがその場にいることを悟り、刀に手を掛ける。
「あっ……」
妖ノ宮が小さく呟くと同時にほうっとした白い影が現れた。
刃が子を描き、影を切り裂く。
すっと、影は消え去った。
「妖にしては妙だな……。手応えがまるでないとは」
「…………」
「妖ノ宮?」
何事も無かったというのに、妖ノ宮はがたgたと震えている。
小さな明りがぼんやりとあたりを照らす。
「おや、こんな夜更けにどうなさったかね」
宿の男が提灯を手にして廊下の奥から現れた。
「いや、妖でも現れたのかとおもったのだが」
「ははあ、旦那も見なすったか。いえ、ただの幽霊ですがね。なあに、悪さは何もしませんよ」
男は去っていった。提灯の丸い光が遠ざかってゆく。
鳩羽と妖ノ宮は狐につままれたような心持で暗闇の中に取り残された。
「ふむ。少々腑に落ちぬが、害がなければ放っておいてもよかろう。――――妖ノ宮?」
妖ノ宮は鳩羽にぴったりと寄り添って、微かに震えている。
「幽霊が怖いのか?」
「だって!」
妖ノ宮はきっと顔を上げ、憤慨したように叫ぶ。
「幽霊って燃えないんだもの!」
鳩羽は大声で笑い出した。
妖ノ宮はむくれた顔で引き返す。
「すまない、妖ノ宮。あまりに意外だったものだから」
部屋に戻って彼女の背に声を掛けると、妖ノ宮は振り返った。
まだ少し怒ったように妖ノ宮は口を開いた。
「それなら、私のお願い聞いてくれます?」
「わかった、何でも聞こう」
「今夜一緒に寝てください」
しばらく沈黙が続いた。
鳩羽は迷っていた。何でも聞くと言った手前、断るわけにもいくまい。だが……。
「もちろん、一緒にいてくれるだけでいいんですよ!?」
慌てたように妖ノ宮が言い添える。
(それはそれで困るのだが……)
そうでなくとも別の意味で困るところだが。
「やっぱり、無理かしら……」
心細げに俯く妖ノ宮。鳩羽は小さく吐息をつき、
「あなたの望みどおりにしよう。妖ノ宮」
「本当?」
妖ノ宮は鳩羽を見上げ、安心したように微笑んだ。
このような顔を見てしまっては置いていくことなどできそうもない。
徹夜を覚悟する鳩羽だった。
「私が眠るまででいいから」
布団に潜り込みながら、妖ノ宮は囁いた。
その隣で鳩羽はぎこちなく横になる。
静まり返った部屋の中に、雨の音だけが響く。
手の届く距離で、互いの息遣いを感しつつ、無言で横たわっていると、ますます意識は冴えてくる。
「妖ノ宮……」
「鳩羽、あの」
同時に言いかけて、何となく互いの言いたいことを察する。
「鳩羽はやっぱり自分の布団で寝てちょうだい。……近くにいれば、それでいいから」
「そうさせてもらおう」
鳩羽は隣の布団に移り、再び横になると、妖ノ宮はにっこり笑う。思わず鳩羽も微笑んだ。
今は、これぐらいの距離がちょうど良い。
「それじゃ、お休みなさい、鳩羽」
「ああ、お休み、妖ノ宮」
雨音は優しく二人を包み込む。
安らぎに満ちた眠りが、まもなく二人を訪れた。
賑やかな鳥の声が聞こえる。
目を開くと、辺りは明るい光に満ちていた。
穏やかな表情で眠る妖ノ宮を起こさないように、鳩羽はそっと廊下へ出た。
空は青く澄み渡り、鈴家を帯びた草木は朝の光で鮮やかな緑色に輝いていた。
これならもう帰れるだろう。
妖ノ宮はごそごそと布団から這い出し、ふと気がついて衝立も陰に隠れた。
鳩羽が部屋に戻ってくる。
「妖ノ宮?起きたのか」
「はい、おはようございます、鳩羽。今日は帰れそうね」
妖ノ宮は残念な気持ちを抑えつつ、努めて明るい口調で語りかけた。
「でも、この三日は楽しかったわ」
「ああ、あなたのお陰で骨休めも出来た。落ち着いたらいずれまた、このような機会もあるだろう」
「そうよね!そのときにはきっと、本物の夫婦になってるわね」
「それもまた、良いだろうな」
妖ノ宮は宿の外へ出ると、すっきりとした青空を見上げ、大きく息を吸い込んだ。
雨に洗われた朝の空気は清々しく、身も心も清めてくれる。
急に陣地のことが気になりだした。
手綱を引いて戻ってきた鳩羽に、妖ノ宮は話しかける。
「皆は元気かしら。すごい雨だったから、どこか壊れてないといいけど」
「そうだな。急いで帰るとしよう。皆も待っているに違いない」
漆黒の馬は二人を乗せて疾風の如く駆け抜ける。
妖ノ宮と鳩羽は再び日常へ、自ら築き上げた王国へと帰ってゆくのだった。
完