甘酒


 桃の花が香る早春の夕暮れ。
 日の光は斜めに延びて、山の陰に隠れつつあった。

「鳩羽」

 鳩羽が妖ノ宮の部屋の前を通りかかると、中から彼女の呼ぶ声が聞こえた。

「何だろうか、妖ノ宮」

 振り返ると、妖ノ宮が大きな銚子を抱えている。

「百錬京の方からお酒を送ってきたのだけど、鳩羽もどうかしら」

 受け取って、蓋を開けると、甘い香りが漂ってきた。
 麹から造る甘い酒だ。いつも飲んでいるものとは違うが、たまにはいいだろう。

「ありがたく頂くとしよう。姫は良いのか?」
「ええ、まだ残ってるし、お酒はあまり飲まないし。・・・・・・でも、少し飲んでみようかしら」
「あまり飲み過ぎないように気を付けた方がよい」
「そうしたいけど・・・。あ、それなら、鳩羽も一緒にどうかしら?お仕事はもう終わったのよね」
「ああ、お付き合い願おう」




 妖ノ宮の部屋に入ると、彼女の前に座布団が敷いてあった。

 座ると、「はい」と杯が差し出される。
 甘い濃密な味。

 妖ノ宮の方を見る。
 彼女は好奇心に満ちた目で杯をしばらく眺めたあと、そっと一口に含んだ。

「あら、意外と美味しいわね」
「うむ、良い酒だな。ゆっくりと飲むと良い」

 杯を傾けつつ外を眺めると、青い空も白い雲も赤い光に染まりつつあった。
 何度となく過ごしてきた、南風の夕暮れ。

 だが、終わりの見えない争いに、皆疲れを見せ始めている。
 古閑との戦は振り出しに戻り、本紀との対立はもはや修正不可能なところまで来ている。
 気丈に振舞ってきた妖ノ宮でさえ、悩みを抱えている様子だった。

 時折彼女の不安げな視線を感じるようになっていた。
 その訳は良くわかっていた。
 わからないのは、自分の心だった。

 妖ノ宮の様子を伺うと、杯を大きく傾け、勢い良く酒を飲み干している。
 鳩羽が物思いに囚われているうちに何杯飲んだのであろうか、白い顔はうっすらと紅潮し、目の焦点が定まらなくなっている。
 杯を注ごうとする彼女の手を押さえる。

「妖ノ宮、もう止めた方が良い」

「そう?美味しいから何杯でも飲めそうな気がするのだけど。そうね。もうすぐ夕餉だし、この辺にしましょうか」

 妖ノ宮はふらつく手で杯を置き、ぼんやりと壁に寄りかかった。

「姫・・・大丈夫なのか」

 思わず鳩羽は立ち上がり、妖ノ宮の横に膝をついた。

「平気平気。うふふ」

 幸せそうに笑ったかと思うと、妖ノ宮は鳩羽に向き直った。
 ふわりと黒髪が流れ、膝の上に重みが加わる。
 妖ノ宮が鳩羽の膝に頭を乗せていた。

「あ、妖ノ宮!?」
「ちょっと休ませて・・・・・・」

 重たげに目蓋が下がり、妖ノ宮は静かになった。

「・・・・・・」

 鳩羽は当惑したまま部屋の外を眺めていた。
 誰にも見られなければいいのだが。




 空はますます赤味を増し、夕星が輝き始めた。
 花瓶に差した桃の花から芳香が漂う。
 何事も無かったように、浅い春の日は穏やかに暮れてゆく。

 後、どのぐらいこんな時を過ごせるだろうか。
 膝の上で寝息を立てている彼女の存在が痛いほどに意識される。

 どこか適当な所で休ませた方がいいに違いないが、何故かそうする気になれないでいた。

「鳩羽」

 突然名を呼ばれ、鳩羽ははっとする。  酔って寝ていたとは思えないほど、凛とした張りのある声で、妖ノ宮が呼びかける。

「鳩羽。艶葉に帰りたい?」
「・・・!」

 やはり、彼女の耳にも入っていたのか。
 先日、艶葉の王の子である春秋が鳩羽の元を訪れていた。
 鳩羽の膝に頭を乗せたまま、妖ノ宮は語りかける。

「帰りたいわよね。神流河ではずっと苦労してきたんだもの」

 鳩羽は返事をすることもできず、ただ妖ノ宮の声に耳を傾けていた。

「私はいいのよ。いくら神流河の者であっても、ずっと部屋に閉じ込められていたんだもの、故郷を思う気持ちでは、鳩羽には敵わないわ。
鳩羽が行くのなら、私も艶葉に行くわ」
「妖ノ宮、何を――――!」
「神流河でさえ私を嫌う人はいくらでもいるのだもの、どこに居たって同じよ。それよりも私は・・・」

 声が途切れ、妖ノ宮はしばらく沈黙した後、強い意志を込めて、話を続けた。

「私がついてくれば、鳩羽の立場は悪くなるかもしれないわね。それなら、人質にしてもかまわないわ。閉じ込められるのは慣れてるし、自分の身ぐらい自分で守るもの」

 呆然とする鳩羽に、妖ノ宮は懇願するように告げた。

「だから、・・・置いていかないで」
「妖ノ宮、そんな心配をする必要はない」

 鳩羽は笑い、艶やかな黒い髪にそっと触れた。

「あなたを置いてくことなど、考えもしなかったのだから」

 妖ノ宮は跳ね起きた。
 膝の上消えた温もりを惜しみつつ、鳩羽はそのひたむきな瞳を見詰め返した。

「でも、私は神流河の姫よ!?鳩羽が私の後盾になったのは、四天相克を勝つためでしょう?」

 妖ノ宮は俯く。

「神流河を離れたら、もう一緒にいる理由が無いわ。・・・力になってあげられないかもしれないもの」
「私は、あなたの後見を引き受けたのだ。それを投げ出すつもりはない。あなたが望まない限り」
 妖ノ宮を戦場に連れ出し、神流河の覇権争いに担ぎ出したことを申し訳なく思っていた。
 その代わりに、彼女の身は最後まで守り通すつもりだった。
 自分に何が起こっても。

 義務感で始まったその気持ちは、いつの間にか自分自身の願いになっている。
 彼女が不幸になる選択はしたくない。
 今は心から、そう思う。

 妖ノ宮は彼を見上げて、微かに微笑んだ。

「・・・わかったわ。あなたがどんな道を選んでも、私は何も言わないわ。最後まであなたの力になりたいもの」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。もうあなたと離れて生きていくことなど考えられないのだから」

 何気なく言った一言に、妖ノ宮が再び赤くなる。
 おかしなことでも言っただろうかと鳩羽は首を傾げながら、再び杯を傾けた。

 思えばこの時にはもう答えは決まっていたのだと、鳩羽は後に知ることになる。