あやしの姫


 南風地方の北の外れ、加治鳩羽駐屯地。

 広い草原の只中に、真新しい材木や白布で構成された、どちらかといえば殺風景な建物。
 その間にちらりと鮮やかな色彩が覗く。

 薄紅色の牡丹を散らした真紅の着物。
 艶ややかな黒髪を風に靡かせて、少女は辺りを眺め回した。
 深窓に生い育った姫にはあらゆる物が新鮮だった。

 軽やかな足取りで建物の周囲を巡っていた妖ノ宮、好奇心に瞳を輝かせて木の根元にしゃがみ込んだ。
 日の光を凝縮したような黄色い花。

   小さな花束を作る妖ノ宮の背後に足音が近づく。
 この陣営の主、加治鳩羽であった。

「こちらに居られたか、妖ノ宮」
「ええ、部屋に飾る花を探しに」
「この陣地の中で?」
「あら、よく見ればここにも色んな花があるわよ・・・ほら」

 花束を抱えて妖ノ宮が立ち上がると、くいっと軽く頭を引っ張られた。
 左の組み紐の一本が低い木の枝に引っ掛かっている。

「姫、動かない方が良い。私が取ろう」
「はい」

 妖ノ宮は微かに頬を染めてその場に立ち止まった。
 鳩羽は紐を解こうとするが、赤い紐は木葉を巻き込み蛇のように枝に絡み付いて中々離れない。
 焦った弾みに妖ノ宮の髪の結び目の方が解けそうになる。

「失礼、妖ノ宮、結び目が・・・」

 赤い蝶結びに鳩羽の指が触れた途端、ざっと音を立てて潅木が揺れた。
 妖ノ宮が蒼ざめた顔をして、鳩羽から距離を取る。
 白い手が左耳の辺りを庇うように押さえていた――――先程、触れられた辺りを。

 呆然とする鳩羽から顔を背けるように妖ノ宮は目線を逸らし、重い口調で告げた。

「・・・・・・ありがとう。もう、取れたからいいわ」

 そうして振り向きもせずに座所の方へと走り去る。
 袖から色とりどりの花々が零れ落ちた。
 鳩羽は当惑した表情で花を拾い上げ、妖ノ宮の突然の変化に考えを巡らせていた。




 妖ノ宮は一度座所へ戻ると、すぐに外出し、何時間も過ぎてから帰還した。
 人目を避けるようにそっと部屋へ滑り込む。
 部屋の中はしんとして人の気配はない。

 奥へ進み出ると、明るい色彩が視界に入る。
 空だった壷に花が生けてあった。
 先刻陣地の中で摘んだあの花だ。

 花の生け方がよくわからなかったのだろう、数本の花はそれぞれ勝手な方を向き、色の取り合わせも大きさも不揃いであった。
 その不器用な生け方に妖ノ宮は思わず微笑を漏らす。
 だが、たちまち沈んだ表情に戻った。

 妖ノ宮は鏡の前に座り、しばらく鏡面を睨みつけていた。

 その左手が上がり、黒い髪の房を持ち上げる。
 髪の下から現れたのは、先端の尖った長い耳だった。
 人のものとは違う、妖の証。


 ガシャン!

 派手な破壊音に振り向くと、ひっくり返った食膳を前に、女中が恐怖に目を見開いて妖ノ宮を見ている、

「も、申し訳ございません・・・!飛んだ粗相を・・・・・・」

 全身を震わせつつ、ひたすら頭を下げる女中を詰まらなそうに見やって、妖ノ宮は声を掛けた。

「構わないわ。早く片付けて頂戴」
「はっ、はい!只今!」

 激しく狼狽する女中とは対照的に妖ノ宮の面は冷ややかに落ち着いていた。
 このような反応には慣れている。

 最初の内は傷ついたこともあったかもしれない。
 そうしたことはとうの昔に忘却の彼方だった。

 そう、今更、何を感じることもない。

(それなのに・・・・・・)

 妖ノ宮の胸中に鳩羽の驚いた顔が浮かぶ。
 鋭い苦痛が、もう一つの記憶を呼び覚ました。




 南風に連れてこられて間もない頃。
 鳩羽を訪れた妖ノ宮が、部屋の前で耳にした言葉。

「『畏れるな』だと?妖どもめ・・・」

 鋭い口調に妖ノ宮は足を止めた。

 確かに鳩羽の声だった。
 怒りと嫌悪に満ちた声。




 あのような言葉を、鳩羽が妖ノ宮に向けたことはない。
 掛けられる声はいつも優しかった。
 彼の態度には偽りの無い思いやりがあった。

 しかし、本当は妖ノ宮に対しても警戒心を持ち続けているのだろうか。
 敵意を隠して友好的に接することが出来るほど、器用な人ではないと思っているが・・・。

(もしかしたら・・・・・・)

 自分の容姿は、耳さえ見せなければ普通の人間と変わりない。そのせいだろうかと妖ノ宮は疑った。

(では、この耳を見てしまったら?)




 それから数日後。

 妖ノ宮が部屋でぼんやりしていると、

「妖ノ宮。少し、いいだろうか」

 部屋の外から鳩羽の声がした。
 苦い想いが妖ノ宮の胸を締め付ける。

 だが、拒む理由も無い。

「・・・・・・どうぞ」
「邪魔をする」

 妖ノ宮は平静を装い、鳩羽を真っ直ぐに見た。

「どうかしましたか、鳩羽?」
「済まなかった」

 頭を下げる鳩羽を驚いて見詰める。鳩羽は重ねて詫びた。

「あなたの気分を害するようなことをしてしまった。許して欲しい」
「何故、そう思うの?」

 問い返す妖ノ宮に、鳩羽は祖直に答えた。

「悪いが、理由が私にはよくわからないのだ。だからこそ、あなたを怒らせたのかもしれないが・・・」
「・・・・・・」

 あれから何日かの間、鳩羽には会っていなかった。
 戦とその準備で彼が忙しくしていたせいもあるが、避けていたと言われれば否定できない。

「あなたのせいではありません」
「いや、庇ってくれずとも良い。私にも非があったのだろう」

 真摯な将軍の態度を見て、妖ノ宮は嘆息した。
 誤解を解くには、本当のことを話すしかなさそうだ。

「あなたが厭うのは私に触れられることであろうか。男には何でもないことに思えても、深窓の婦人には苦痛なのだろう。考えが至らず、悪いことをした」
「そのことではありません。見られたくなかっただけです。・・・これを」

 震える手を制して、妖ノ宮は髪の毛を持ち上げた。
 長い耳が直に空気に触れる。
 鳩羽が息を飲む。

「あなたも知っている通り、私の母は妖です。この耳とわずかな妖力だけが、妖の子である証しです。人の世で暮す以上、できるかぎり人には見せないようにと教えられてきました」

 語りながらも、妖ノ宮はどうしても俯いてしまう。
 もう鳩羽の顔を見られなかった。

「これが不快なら、もう見せることは致しません。共に戦う間柄、行き違いがあってはいけないと思ってのこと・・・」

 張りのある声が震え、途切れた。

 怖い。
 どうしてこの人を、これほど恐れるのか。

 押し寄せる恐怖の波と戦う妖の姫に、鳩羽が近づいた。
 妖ノ宮は彼を避けるように後ずさる。

「済まない」

 苦痛に満ちた声。
 顔を上げた妖ノ宮は、何故鳩羽は傷ついたような顔をしているのかと訝った。

「あなたは、妖が嫌いなのでしょう?」

 心の底にわだかまっていた疑問をぶつける。

「確かに、妖にいい印象は持っていない。あなたも知っている通り、この辺りに現れる妖は人に害を為すものばかりだ」

 妖ノ宮は頷いた。
 戦場には、血の匂いを嗅ぎ付けて、人を喰らう妖が多く現れる。また、貴重な兵糧を荒らすものもいる。鳩羽は将軍としてそれらの妖から自軍を守らなければならない。

「伽藍殿のように、人と妖の共存を考える余裕は、私にはない。また、それが可能だとは思えない」
「伽藍が言っていたわ。争いを好まない妖は滅多に人前には現れないのだと」
「そうかもしれない。だが、長年の恐れはそう簡単に消えはしない」
「私のことも怖いの?」

 鳩羽はじっと妖ノ宮を――――半妖の姫を見詰めた。
 ゆっくりと口を開く。

「恐れていなかったとは、言えない。あなたの持つ妖の力が、人の世に災いをもたらす可能性もあると思った」

 将軍の率直な言葉に、妖ノ宮も正直な気持ちを語る。

「私も、あなたにはもっと冷たくされると思っていたわ」

 鳩羽は目を閉じ、

「――――訳も無く疑われるのは、辛いものだ」

 紡いだ言葉には深い同情が籠っていた。
 妖ノ宮ははっと目を見開く。
 憂いを湛えた眼差しで、鳩羽は言葉を続ける。

「あなたが覇乱王を殺したという証拠は、何も無い。それでもそう信じて疑わない者は少なくない」

 妖ノ宮の父・覇乱王は天下統一を目前にして、炎の中で怪死を遂げた。
 誰もが放火を疑った。
 容疑者の中には妖ノ宮も入っている。
 強大な妖を母に持つ、ただそれだけの理由で。

 その境遇に、鳩羽は同情していたのだろうか。

 妖ノ宮は思い出す。

 鳩羽もまた、常に謀反を疑われる立場にあった。
 元は敵国の将軍だったゆえに。

 力を持ては持つほど、鳩羽を憎み警戒する人々がいる。覇乱王の叔父、本紀がその代表だ。
 本紀との軋轢は、鳩羽にしばしば理不尽な苦労を強いる。

「あなたは謀反を起こす人ではないわ」
「ありがとう」

 鳩羽は妖ノ宮に暖かな微笑を向ける。
 少女は動悸が早くなるのを感じた。

「奇妙なことだが、半妖であるあなただからこそ、共に戦う相手として考えられるのだろう。他の遺児ならば、こうは思えなかったのかもしれない」

 お互いに、神流河で半分はみ出した立場だからこそ、相手を理解できる。信頼もできる。
 妖ノ宮もそれを理解した。

「もう、私を恐れてはいませんか?」
「あなたの存在は、兵達を勇気付ける。もう、我が陣営に欠かせない存在だ。もちろん、私にとっても」

 感謝の気持ちを現す鳩羽の笑顔に、妖ノ宮の苦痛は消えていった。
 だが、胸の奥に一抹の不安が残っている。

 妖への恐れは容易には消えないと、鳩羽自身が言ったではないか。

「本当に、平気ですか?」

 身を乗り出し、きつい視線を当てて問う妖ノ宮。
 鳩羽は困惑した。

「妖ノ宮?」

 妖ノ宮は席を立って、鳩羽の目の前に進み出た。
 膝と膝が触れ合うような距離で、腰を浮かして鳩羽の顔を至近距離で覗き込む。
 今度は鳩羽が後ずさった。

「耳を見て驚きましたね」

 厳しく問い詰める少女の瞳が揺らぐ。
 鳩羽は身を起こし、彼女の目を真っ直ぐに見返した。

「驚いたことは否定しない。だが」

 ぐらついた妖ノ宮の肩をそっと支えて鳩羽は語った。

「それよりも、あなたの辛そうな顔の方が気になった」

 妖ノ宮の目を見詰めたまま、静かに言った。

「もう、逃げないで欲しい」
「・・・はい」

 妖ノ宮は素直に頷くと、はっとしたように身を離した。
 適度な距離を置いて座りなおすと、紅く染まった顔のまま、鳩羽に微笑みかける。
 鳩羽はしばし見惚れた。

「ごめんなさい、鳩羽。もう避けたりしないから。今まで通り、一緒に戦っていきましょう」
「・・・あぁ、よろしく頼む」

 ふと、妖ノ宮が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「鳩羽ももう少し妖に慣れた方がいいわね。今度一緒に波斯の森まで行かない?楽しいわよ」
「あ、妖の森へか?」
「翠はもう馴染んでるわよ?百錬京より居心地がいいみたい」

 楽しそうに語る少女を、将軍は安心したように優しく見守っていた。

 日は暖かく二人を照らし、草原を吹き抜ける風は良い香りを運んでくる。
 心地よい一時であった。