戦場の恋文


 四天相克は、加治鳩羽の勝利で終結した。
 彼は奉戴する遺児・妖ノ宮と共に百錬京に戻り、神流河を掌握する。
 それから数ヶ月が過ぎ、国内の状勢もようやく落ち着いてきた頃。


「だから、当分結婚するはないと言ってるでしょう!?」

 妖ノ宮は自身の後ろ盾を睨み付けた。
 鳩羽は困惑した表情で彼女を見詰めている。
 少々声が大きすぎただろうかと、妖ノ宮は気まずそうに視線を落とした。

「・・・・・・神流河もずいぶん落ち着いてきました。でも、今私がここから離れて行ったら鳩羽は困るのではないのですか?」
「確かに、天下を取ったとはいえ、まだ私に不満を抱いている者は少なくない。神流河を纏めていくには、もうしばらくの間あなたの力が必要だ。
だが、いつまでもあなたをここに縛り付けておくこともない」
「鳩羽はそんなに私を追い出したいのですか」
「妖ノ宮・・・」

 悲しげに俯く少女に鳩羽はどう声を掛ければよいのかわからず、戸惑った。

   妖ノ宮が覇乱王の後継者と認められてから、多くの縁談が持ち込まれるようになった。
 だが、その話をするたびに彼女が機嫌を悪くする。

(これでもかなり減らしたのだが・・・)

 身分や勢力の不足している者や人格的に好ましくない者、妖などに襲われやすい危険な土地に住むものなどは予め省いておいた。
 そうして断り難い話だけを妖ノ宮の元に持ってくるようにしているのだが・・・。

 と、妖ノ宮が顔を上げた。
 何故か、その瞳は愉快そうにきらめいている。
「ふふふ、冗談です。とにかく、全部お断りするのですから、これ以上のお話は無意味よ。用事はそれだけかしら」
「ん・・・そうだな」

 先ほどとは打って変わって楽しげな様子の妖ノ宮。
 やはり女人の心はわからないと嘆息しつつ、鳩羽は話を続けた。

「近いうちに、また戦場へ出なくてはならない。今度は何日も帰れなくなりそうだ」
「あら・・・」

 妖ノ宮から楽しげな表情が消えた。

「案ずることはない、必ず勝って帰って来る。留守の間、城のことを頼む」
「わかりました。あなたの背後は私が守ります。気を付けていってらっしゃいませ」

 いつものようにしっかりとした口調で答える少女に鳩羽は微笑んだ。

「ああ、あなたがいてくれるから、私も安心して戦に出て行ける」
「御武運を」

 去っていく後ろ姿を、妖ノ宮はいつまでも見詰めていた。




 鳩羽が百錬京を離れてから三日目。

 妖ノ宮はぼんやりと自室に座って庭を眺めていた。
 仕事はもう全て片付けた。
 後は何をしようと自由なのだが・・・。

(ここにいると、昔に戻ったような気がしてしまうわね・・・)

 そもそもこの部屋にはいい思い出が無い。
 いや、思い出と呼べるようなものは何もないのだ。
 外に出ることも許されず、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの生活。

   もちろん、今はもう閉じ込められているわけではないのだから、人を呼んだり出かけたりしてもかまわない。
 だけど、今はしたいのはそんなことではない。

 ふと空を見上げる。
 すっきりと晴れた青い空。
 だが、庭木と塀に遮られた小さな空。

 南風の空はとても広くて大きかった。
 鮮やかな緑に輝く草原の上の、どこまでも続く空の色を、初めて美しいと感じたのだ。

 他の人々が言うように、不自由な暮らしだとは思わなかった。
 それまでよりずっと自由で広い世界に住んでいたのだから。
 百錬京に帰った今でも、そのことは変わらないはずだ。

 だけど、鳩羽のいない時には、奇妙な心細さを感じるのだった。

(南風にいた頃はこれほどじゃなかったのに)

 感傷を振り払うように妖ノ宮は跳ね起きると、紙と筆を取り出した。
 こういう時には、手紙を書くことにしたのだ。
 涼しげな水の音を背後に、紙の上はたちまち文字で埋まっていく。


 ・・・・・・少々書きすぎてしまっただろうか。
 ほんの数行で終えるはずの文は、気がつけばかなりの長さになっていた。

 (いいわよね。私の手紙は面白いって言ってくれたんだし)

 言い訳のように呟くと、妖ノ宮は紙を丸め、机の上に投げ出した。
   蝉の声が騒がしい。
 妖ノ宮は机に向かったまま、他愛もない落書きをして時間を潰した。

 鳩羽の天幕にひょこっと咲が顔を覗かせた。
 手にした文を鳩羽に手渡す。

「将軍、宮様からお手紙です!」
「ああ、ご苦労だった」

 鳩羽は安堵した表情で手紙を受け取った。
 百錬京を離れる時間が長い時は、妖ノ宮から手紙が届くようになった。
 その便りは、鳩羽にとって大きな楽しみの一つになっていた。

 この前の縁談のことで彼女はかなり気を悪くしていたから、今回は来ないのではないかと思っていた。

 だが、もし妖ノ宮がどこかへ嫁いでしまったら、もうこうして度々手紙を受け取ることも出来なくなる。
 戦場から帰って来るたびに笑顔で迎えてくれる彼女もいなくなる。

 そう気づいた時、言いようのない寂しさが心の内に広がった。
 改めて思う、彼女がどれほど自分の支えになってくれていることか。

   彼女の面影を思い描きながら、鳩羽は手紙を開いた。


 天幕に入ってきた沢渡は、鳩羽が奇妙な表情を浮かべ、何度も手紙を読み返しているのを見た。

「どうなさいましたか、鳩羽様?」
「いや・・・咲、これは本当に妖ノ宮からの手紙なのか?」
「間違いありませんよ!」

 咲は自信ありげに断定した。

「何かおかしなことでも?」
「いや、大したことではない。直接姫に尋ねてみよう」

 どことなく上の空で手紙を懐にしまう鳩羽を沢渡は不思議そうに見守った。




「お帰りなさい!鳩羽!」

 城内に足を踏み入れた途端、喜びに目を輝かせ、ふわりと漆黒の髪を靡かせて、駆け寄ってくる妖ノ宮。  思わず鳩羽は微笑んだ。

「手紙読んでくれた?」

 妖ノ宮がそう問いかけると、鳩羽は視線を逸らした。

「そのことなのだが・・・後で話がある」
「ええ、かまわないけど・・・?」

 無邪気に首を傾げる少女を見て、鳩羽は胸中に呟いた。

(やはり何かの間違いだったのだろうか?)




 鳩羽が一通り用事を済ませ、妖ノ宮の部屋を訪れた時には、すっかり日が暮れていた。
 戦場から帰ったばかりなのだから仕方がない。
 明日にすべきなのだろうが、一刻も早く確かめたかった。

 手の内に手紙を握り締め、部屋の外から声を掛ける。

「どうぞ、お入り下さい」

 いつもと変わらない少女の声に鼓動が高まるのを意識しつつ、鳩羽は部屋の中に足を踏み入れた。

「どうしたの?鳩羽」

 そう言いながら、妖ノ宮は彼の手に見覚えのある紙があるのに気がついた。
 この前出した手紙のことだろうか。

(別に変なことは書いてないはずだけど・・・)

 鳩羽は大きく息を吸い込むと、手紙を妖ノ宮の前に置いた。

「これは、確かにあなたが書いたのか?」

 不審に思いながらも、妖ノ宮は身を乗り出して、手紙を読み始めた。

『私が初めて南風に来た時のことを覚えていますか。私は誰もいない世界の中で一人、人間らしい感情も知らず、ただ虚ろな時を過ごしておりました。
例え、戦いのためであっても、私自身に何の感情を持っていなくても、私はその出会いに感謝せずにいられません。
あなたにお会いしてから、いかに世界が広く美しいかを、知ることができました。思えばあの時から私は』

 がばっと妖ノ宮は手紙の上に身を伏せた。
 鳩羽の目から隠すように。
 いや、もう読まれた後なのだから、意味はないのだが。

 妖ノ宮はうろたえながら、手紙を袖の下に隠した。
 出すべき手紙を間違えてしまったのに違いない。
 落書きをしているうちに、つい自分の正直な気持ちをそのまま書きとめてしまった。

 鳩羽に連れられて南風に連れられてきた時のこと、南風での生活の幸福だったこと、鳩羽のいない時の寂しさや、無事に帰って来てくれるのか常に彼の身を案じていること、縁談を進められた時の辛さなど。
 思い出すだけでも恐ろしい。

 顔を真っ赤にして手紙を握り締める妖ノ宮。
 鳩羽はためらいがちに声を掛けた。

「妖ノ宮・・・・・・」
「こ、これは・・・ただの落書きです!人に見せるような物ではありません・・・!」

 途切れ途切れの彼女の釈明を聞き、鳩羽は吐息をついた。

「では、やはり間違いなのか」
「・・・書いてあることは全部本当のことです」

 顔を伏せたまま、鋭い調子で妖ノ宮は語った。
 本心を隠し続けるのがもう苦痛になり始めていた。

「・・・別に何かして欲しいというわけではありません。迷惑だったら、このままなかったことにして下さい」

 手紙を引き裂こうとする白い小さな手を褐色の大きな手が押さえた。

「どうか、破らないで欲しい」

 妖ノ宮は思わず顔を上げた。
 鳩羽は、彼女の目をしっかりと見詰め、両手でその手を握り締めたまま、優しく語りかけた。

「この手紙が、本物ならいいと・・・本物であって欲しいと思っていた。この手紙を私にくれないか?」

 妖ノ宮の手紙かひらりと床に落ちる。
 鳩羽はそれを拾い上げて、丁寧に畳むと、懐にしまい込んだ。

 妖ノ宮はまだうっすらと紅潮した頬のまま、呟いた。

「もう縁談を持ち込んだりはしないわね?」
「ああ、これで最後にする」

 鳩羽が妖ノ宮に向き直る。




 漆黒の闇の中、小さな光がいくつもの筋を描く。
 淡い蛍の光が、重なる二つの陰を照らしていた。