家の中から這い上がったアティはぎゅっとマントから水気を絞り落とすと、再び出発地点に戻った。
「よーし、もう一回!」
「おう!」
「頑張って!」
勢い良く拳を突き上げながら、高らかに叫ぶアティと声援を送る生徒達。それを離れたところから見守る影があった。
(まだやるつもりなのだろうか……)
もう10回は超えただろうか。島の教師の挑戦をキュウマは不安げに見ていた。
最近、風雷の里の大きな蓮池にこの若い教師が度々顔を見せるようになった。子供達と一緒に遊んでくれるのはいいのだが、池に落ちる姿ばかり見ているような気がする。何度落ちても懲りずに再挑戦を続けるその根性には感心すべきかどうか、キュウマには判断がつかなかった。
「きゃー!?」
案の定、再び悲鳴と共に水中に沈むアティ。かなり先の方まで行っていたので、池の底もかなりの深さがある。泳ぎはできるようだから、溺れる心配は無さそうだが…………。
「はあ…………」
岸まで泳ぎ着いて、アティはため息をついた。もう何日も通ってるのに向こう岸までたどり着けない。まだ練習が足りないのだろうか。
(さっさと上がってもう一回やろう)
そう思って岸から体を引き上げようとしたその時、ずるっと腕がすべった。
(あれ)
腕に力を込めようとしても、ますますずるずると下がってしまう。
(変だな……力が入らない)
気がつけば、水面が再び目の前に迫っている。
(落ちる…………っ)
固く目を閉じた瞬間、腕を捕まれ、池から引き上げられる。
「大丈夫ですか?」
「はい、すみませ…………」
助けてくれたシノビの顔を見上げたアティは、彼が自分の方を見ないようにしているのに気づいた。はっとして、マントの前をかき合せる。濡れた服が体に張り付いてきて気持ち悪いが、それ以上に恥ずかしい。
「すみません、こんな格好で……! あの、助けてくれてありがとうございます……ひょっとして、さっきから見てました?」
「え!?はあ……万が一の事があってはならないので、スバルさまがいらっしゃる時はいつも…………」
「別においらは平気だけどなー。落ちてるの先生だけだし」
「うっ…………」
痛い所を突かれてアティは沈黙する。
「とにかく、今日はもう止めておいた方がいいでしょう」
「そうします。じゃ、スバルくん、悪いけど先生はこれで」
「いいよ。おいらもう飽きたし」
「うーん。ごめんね、アティ先生」
「うう…………」
再び沈黙するアティ先生。
「ねえ、今度は何して遊ぶ?」
「そうだな……ジィちゃんのとこでもいってくっか!」
「うん!」
ばたばたと元気な足音を立てて、子供達はあっという間に遠ざかっていった。
(子供は元気だなー)
アティは苦笑交じりにその姿を見送った。濡れた衣服が重く感じられる。風の冷たさが身に染みた。思わず身震いする。その彼女の様子を見て、
「しばらく屋敷で休んでいきませんか? お疲れのようですから」
「そうですね、じゃ、少しお邪魔させてもらいます」
全身ずぶ濡れになったアティを見て、ミスミは早速、
「これはまた、ずいぶん派手に落ちたものじゃのう」そんな感想を口にした。
「えへへ。ついムキになっちゃって」
照れ笑いしつつ答えるアティを半ば呆れたように見やりつつ、
「たかが子供の遊びであろ? そこまで付き合うこともあるまい」と呟くミスミ。
「いいんです、楽しくてやってるんですから。……それで、すみませんが、お風呂を貸してもらえませんか」
「おお、そうじゃ。そのままでは寒かろう、ゆっくり暖まってゆくがよい。その服はしばし日に当てて乾かしておく」
しばらくして、キュウマが再び屋敷に戻ってくると、ミスミが、
「そろそろ茶にするするから、そなたも休むが良いぞ」と、声を掛けてきた。
「はい、それでは……」
そういうことなら、アテイを呼んだほうが良いだろう。そう考えて、奥の方へ足を踏み込むと、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
こちらに走り寄ってくるのは、若草色の着物に身を包んだ娘。赤い髪には金の髪飾りを挿し、ほんのりと頬を紅潮させ、瞳を輝かせている。一瞬誰だろうと考え込んだキュウマが、自体を理解するより早く、彼女の方から口を開いた。
「キュウマさん! この吹くどう思いま……ひゃ!?」
大きくアティの体が傾いた。キュウマはとっさに両手を差し出して、彼女を受け止めた。ふわりと柔らかな感触が胸元から全身に伝わってきて、意気が止まりそうになる。
「すすす、すみません! 足に引っかかっちゃって……」
「…………いえ……。お気になさらずとも……」
キュウマはそれだけ答えるがやっとであった。アティは、彼の腕につかまりながら、体勢を立て直そうとするのだが、疲れた足はなかなかいうことを聞かない。
「ご、ごめんなさい……ちゃんと、歩け……」
「………………」
彼の方はもう声も出せないようだ。
「アティ、向こうに茶の用意が…………」
部屋に入ってきたミスミは、真っ赤になったまま硬直しているキュウマと彼の腕の中でもがいているアティをしばし見比べた後、
「邪魔したな」その一語を残して静かに襖を閉めた。
「待ってー!」
「待ってくださーい!」
二人揃って助けを求めると、がらりと勢い良く襖が開いた。
「わかった!みなまで言うな!」
何をどう理解したのか、ミスミは頷きつつ、
「寝所の準備はしておくからの」にやりと笑ってそんなことを言った。
「…………!」
(ミスミさま……わざとやってませんか?)
アティは声にならない抗議を繰り返すキュウマを面白そうに観察しているミスミを見て、そんな疑いを抱くのであった。
「おおかたそんなことであろうと思っておったわ。こやつにそんな甲斐性があればわらわも心配はせぬ」
縁側に並んで茶をすすりながら、ミスミは澄まし顔で呟いた。
アティはまだ少し赤い顔を真っ直ぐ庭に向けたまま、茶碗を傾けていた。明るい日差しの中、淡い緑色の衣に赤い髪が鮮やかな光を放つ。
「どうじゃ? 綺麗なものじゃろう?」
そのミスミの言葉にアティはますます頬を赤くして顔を俯けた。
「そ、そうですね」キュウマは彼女から視線を逸らしてそう答えるのが精一杯であった。
「何じゃ、せっかくわらわが試行錯誤して完成した作品じゃぞ? もっと気を入れて褒めぬか」
「いえ……自分はそのようなことには詳しくないもので…………」
「ミスミ様……もういいですから…………」
「ふふ、冗談じゃ。そなた、何枚か着物を持って帰らぬか? 遭難してきたからには着るものにも不自由しておろう」
「すみませんけど、あまり動きにくい服はちょっと……。いつ戦いが起こるかわかりませんし」
「そうか、わらわの遊戯につき合わせてすまなんだの。息子だけではこのような楽しみが無くてな」
「いいえ、私も楽しかったし。すっかりお世話になりました」
「うむ、また気軽に立ち寄るがよいぞ。服を濡らさずに蓮の上を渡るまでにはまだまだかかりそうじゃからの」
「あははは…………」
夕焼け空の下、アティはいつもの服装で、
「すっかりお邪魔してしまいました」
「いえ、いつでもお越しください。ミスミ様もお喜びになります」
「ありがとうございます。キュウマさんにも色々お世話に……」
そう言ったところで今日一日の出来事を思い出してアティの顔は頭上の空のように赤くなった。彼女に劣らず赤くなりながら、キュウマは、
「な、何でもありません! お気をつけてお借りください」
「はい! お休みなさい、キュウマさん」
早足で夕闇の中へと駆けてゆく白い後姿を、キュウマは少し寂しい気持ちで見送った。
見えなくなる前にアティは一度振り返り大きく手を振った。その笑顔につられたようにキュウマものまた笑顔を返していた。
緑の葉が大きくたわんで白いブーツは見事に蓮の上に着地した。
「やったー!」
「先生、すごーい!」
「へえ、やるな! ま、おいらから見ればまだまだだけどな!」
「ふんだ、すぐスバルくんよりうまくなりますからね!」
アティは満面の笑みを浮かべて賞品を受け取った。苦労の末に手にしたものは、小さなにぼしのみであったが、それでもアティは嬉しそうだった。
キュウマも密かに安堵の吐息を漏らす。
「きゃー!?」