(不味いわね・・・・・・)
どうやら、異国に着く前に目が覚めてしまったらしい。
日叡の手引きで、妖ノ宮は密かに座所を抜け出し、異国に出る手筈になっていた。
意識の無い人形の振りをして国外へ運び込まれるはずなのだが・・・。
妖力が高まったことにより、体質も変わったのだろうか。
睡眠薬の効果が輸送の途中で切れてしまった。
目を閉じても、眠気は訪れない。
日叡にまた薬を貰わなくては。
その時、軋むような音が響き、賑やかな話し声が部屋に流れ込んできた。
今、声を出すのは不味いだろうか。
日叡か美春が一人で来たのなら良いだろうが・・・・・・。
《荷物の様子はどうだ?》
《心配いらねえよ。ブエンディアまでぐっすりさ》
どっと起こる笑い声の下で、妖ノ宮は眉を顰めた。
異国後の会話で、何を言っているのかわからない。
《ま、今回は大物が混じってるからな。慎重に運べとさ》
《ああ、「闇の者」かい?どこの物好きが買うか知らねえが、儲けにはなるな》
話し声が遠ざかり、部屋は静寂に包まれた。
(・・・・・・・・・)
狭い。
手を動かすことすらできないのは不便である。
腹の虫が鳴った。
妖ノ宮は手を板の継ぎ目にかざす。
小さな炎が吹き上がり、煙が棚引く。
そっと板を持ち上げると、あっさりと外れた。
箱の外へ出ると、大きく手足を伸ばす。
床はゆらゆらと揺れている。
ここは海の上なのだろう。
箱に入っておくのは、出入りの際役人を誤魔化すためなのだから、船の中なら歩いてもいいだろう。
そう決めると、妖ノ宮は扉に穴を開け、そっと廊下に踏み出した。
《おい、俺のパンがないぞ!》
《知るかそんなの!》
妖ノ宮は話し声に背を向け、小さな部屋の中で異国の食物を齧っていた。
飢えは満たされたし、一応元の部屋に戻っておこうか。
「もし、そこな妖よ」
突然部屋の向こう側から声を掛けられ、妖ノ宮は首を傾げた。
この部屋には自分しかいないようだが・・・・・・。
「お主は妖であろう?なぜか人の臭いもするが・・・・・・。ちょいとここから出してくれんかの」
声の聞こえてきた方向を探ると、大きな樽が並べてある。
この中から聞こえてくるようだ。
妖ノ宮は樽の蓋を持ち上げた。
ぬっと水かきのついた手が樽の縁を掴む。
頭に大きな皿を被り、蛙のような目をした妖が中から這い出してきた。
「おお、ありがたい。主も捕まったのか?」
「え?」
「人を攫って異国へ売り飛ばす船があると、海の妖の間では専らの噂じゃ」
そういえば、神流河に人攫いが出ていると聞いたことがある。
まさか、この船は・・・・・・。
「主も早う逃げるが良いぞ。できれば、この入れ物の端まで案内して欲しいのじゃが」
妖が海に潜り込む。
海面に広がる波紋を眺めながら、妖ノ宮は改めて考えた。
日叡とその仲間は人攫いの一味だったのか?
確かに彼らが善人であり、無事に神流河に帰してくれるという保証は無い。
だが・・・。
見渡す限り、水平線の果てまで延々と大海原が続くのみである。
自分一人では逃げられまい。
誰かを妖術で操って・・・・・・。
《おい、お前!そこで何してる!》
叫び声に慌てて走り出すも、ここは船の上である。
たちまち船の先に追い詰められ、船員達に取り囲まれる。
彼らの向こうから悠々と歩いてくるのは、日叡と美春、霧島の三人だ。
「逃げる、いけません。ニンギョウは、ハコに帰ってください」
「神流河に帰してくれない?」
日叡はわざてらしく肩を竦めてみせた。
「はて?カンナガワ返す、誰がいいました?私はアナタを異国に送る、約束しただけです」
涼しい顔で言い放つ日叡。
どっと笑い声が起こった。
妖ノ宮の金色の瞳が光る。
赤い旋風が船上を走る。
煌く紫色の光。
炎はたちまち打ち砕かれ、強烈な光に妖ノ宮は怯んだ。
「こちらには、この石があります。無駄な抵抗は止めた方が、みため・・・身のためです」
淡く光る石を手にした船員がじりじりと妖ノ宮に近づく。
妖ノ宮はじりじりと後退するが、背後は海である。
袖で顔を隠し、石の力に身を強張らせた。
その刹那、大きな破裂音が響き渡った。
船の床に穴が開き、煙を吹き上げている。
妖姫の赤い袖口からは、黒い筒が覗いている。
「南風の駐屯地からこっそり頂いて来たの。どこに当たるかわからないわよ?」
破裂音が連続して起こり、船の上は騒然とした。
逃げ惑う船員。
その銃撃が唐突に止んだ。
小さな銃はくるくると宙を舞い、軽い音を立てて海へと落下した。
妖ノ宮は顔を顰めて腕を抑えている。
弾が直接当たったわけではないが、銃を弾き飛ばされた衝撃で腕がしびれている。
霧島が銃を彼女に向けている。銃口から煙が立ち昇っていた。
「悪いが、銃の扱いじゃ俺の方が上手だ。もっと修行するんだな」
「やれやれ、姫さンにはもっと強い薬が必要だねえ」
美春が吐息をつくと、日叡は再び水晶をかざす。
「さあ、大人しくするのです。大事なショウヒンを傷つけたくはありません」
何人もの船員達が一斉に水晶を掲げた。
紫色の光が、妖ノ宮を取り囲む。
その光に耐えられず、妖ノ宮はその場に座り込んだ。
「船中のスイショウを集めました。もうアナタは逃げられません」
「船中の・・・・・・?」
妖ノ宮の口の端が釣り上がり、笑みを刻んだ。
その全身から赤い陽炎が立ち昇る。
何故かと問う間も無く、爆発音が轟き、衝撃で船が大きく揺れた。
小さな木の屑が嵐のように舞い上がる。
船員達は突風が収まると、不思議そうに顔を見合わせた。
《?石が反応しないぞ?》
《大丈夫だ、こっちには何も起きてない》
《何か、背中がスースーするね・・・?》
背後を振り返った船員達から、驚きの声が上がる。
大きな異国の船は、その半分を吹き飛ばされ、巨大な渦巻きに飲み込まれようとしていた。
もはや鉄砲も水晶も無力である。
海のオロチは怒りの咆哮を上げ、異国の闖入者を飲み込んだ。
渦巻きが消え、海は再び穏やかな顔を取り戻した。
緩やかに流れる波の上、妖ノ宮は樽に捕まり漂っていた。
「ほう。無事だったかね」
先程の妖が水の中から顔を出した。
「どうやらね」
「ふむ、人間臭いと思っていたが、お主も立派な妖じゃ。どれ、神流河まで案内しよう」
「助かるわ。どれぐらいかかるかしら」
「何、我の泳ぎなら、十日もすれば辿り着けよう」
「十日・・・・・・?」
妖ノ宮は思わず辺りを見回した。
一面の青。
島の影一つ見えない。
「どうした?急に疲れた顔して。なあに、魚ぐらい分けてやるとも」
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
樽に捕まりながら、妖ノ宮は果たして生きて帰れるだろうかと自問した・・・。
それから三日後、妖ノ宮は通りがかった漁船に発見され、無事に後盾の元へ返された。
もう絶対に異国へはいかないと、彼女は固く誓ったのであった。