さらさら床を滑る絹の音。
ひたりと冷たい手が額に押し当てられた。
「…………妖ノ宮か」
襲い掛かる激痛に悲鳴を噛み殺す。
武将として数限りなく戦場へ赴いてきた身、斬ったり斬られたりは日常茶飯事であるのに、
こうして苦痛にのた打ち回る姿を見せてしまうとは情けない。
「済まない。……騒がしくしてしまった」
「蛍から痛み止めを貰ってきたわ。飲めば良くなるわよ」
そっと口元に押し当てられる茶碗。
奇妙な味のする液体を一息に飲み下す。
茶碗が床に置かれ、小さな白い手が再び額に押し当てられた。美しい手だ、とぼんやりとした意識の中で鳩羽は思った。
その手に吸い取られるように、苦痛が徐々に薄れていく。
「薬は効きました?」
真上から覗き込んでくる妖ノ宮の心配そうな顔。
その顔から不安を取り除きたくて、鳩羽は微笑を浮かべてみせた。
「……ああ。助かった。ありがとう、妖ノ宮」
彼女の頬にうっすらと赤みが差す。
「いいの、蛍にもお礼を言わなくちゃね。鳩羽、歩ける?今日はもう休んだ方がいいわ」
「そうさせてもらおう」
ゆっくりと体を起こす。まだ気だるさは残っていたが、何とか寝室まで歩けそうだ。
妖ノ宮に支えられるようにして奥の部屋へ入り、布団の上に身を横たえる。
妖ノ宮が丁寧に布団を掛けてくれた。
「……夜も更けた。あなたも部屋に戻るといい」
「もう少し様子をみているわ。また辛くなったら言ってね」
微笑むその顔に問いかける。
「休まなくていいのか?」
「鳩羽が良くなるまで、私も落ち着かないわ」
座布団に茶と菓子まで用意して、妖ノ宮は鳩羽の枕元に座を占めた。
観念して鳩羽は彼女の看病を受け入れることにした。
目を閉じ、強張った体から力を抜く。
静けさの中に先ほどまでの疲れが溶けてゆくようだ。
不思議なほど心が休まる。
それも、彼女の力か。
妖の力でもなく、覇乱王の姫としての権力でもない。
一人の女人としての力。
額の汗を拭うさらりとした手ぬぐいの感覚を心地よく感じながら、鳩羽は眠りに落ちていった。
再び目を開いた時には、辺りは明るくなり始めていた。
夜明けの光がぼんやりと部屋の中を照らす。
見慣れぬ緋色の衣が視界に入る。
起き上がって確かめると、鳩羽の枕元で、妖ノ宮が横になっていた。
安らかな寝息が聞こえる。
一晩中ついていてくれたのか。
その上に身をかがめると、ゆっくりと瞳が開いた。
はっとしたように飛び起きて、座りなおす妖ノ宮。
少々ばつの悪そうな顔で、彼女は言った。
「ごめんなさい、つい私まで寝てしまったわ。もう大丈夫?」
見上げる心配そうな瞳に微笑む。
「ああ、もうすっかり良くなった。感謝する」
妖ノ宮は晴れやかな笑みを浮かべた。
「良かったわ!じゃ、人に見られないように帰らないと。鳩羽に迷惑がかかってしまうわね」
「いや、別に迷惑ではないが」
入り口に向かう妖ノ宮の足が歩みを止める。
不可解な色を浮かべた瞳がじっと鳩羽を見詰めている。
「妖ノ宮?」
「…………それなら、もっとここにいようかしら」
「いや、それはあなたが困るだろう」
「私は…………」
妖ノ宮は俯いて何か考え込んでいる。
何を思っているのだろう?
鳩羽にはさっぱり理解できないのであった。
後ろ盾として寝食を共にしているが、未だに彼女の――――女人の心はわからないままである。
妖ノ宮は奇妙な表情のまま、鳩羽に背を向けた。
「帰るわ」
「待って欲しい」
「何?」
拗ねたような顔をまっすぐに見返して、彼は口を開いた。
「まだ朝の挨拶をしていなかった。おはよう、妖ノ宮」
妖ノ宮の顔の上をさまざまな感情が通り過ぎた。
最後にゆっくりと笑顔を浮かべる。