まじない


 日差しは日毎に暖かさを増し、野山は明るい緑と鮮やかな花の色で美しく染まり始めていた。
 その春の陽気を他所に、南風の防衛を預かる将軍・加治鳩羽は部屋の中で一人戦略を練っていた。
 古閑が艶葉と同盟を組もうとしているとの情報が伝わってきたのである。

 神流河に多大な被害を与えた異国の武器、投擲雷。
 その対策は万全だ。
 もはや投擲雷は脅威ではないことを、間も無く誰もが知ることになる。

 問題は兵たちの士気である。

 鳩羽の配下には、艶葉出身の兵も居た。
 かつて共に暮らした故郷の人々と戦わなくてはならないのである。
 それに加えて、鳩羽の腹心の部下である沢渡が艶葉に戻ったことも彼らの動揺を大きくした。

 沢渡は艶葉が滅ぶ前から鳩羽と共に戦ってきた人物である。
 鳩羽の良き相談役であり、艶葉出身の兵たちからも慕われていた。
 今、ここに沢渡がいれば、的確な助言をしてくれたであろう。

 鳩羽は頭を振って、その考えを払い落とした。
 いなくなった者のことを考えても仕方が無い。
 とにかく今は、この戦いを終わらせることに全力を向けなければ。

 長く続く戦いに南風の民は疲れ切っている。
 馴染みの兵の中にも命を落とした者がいた。
 これ以上犠牲を増やしたくない。

 何より・・・・・・。


「あの、鳩羽?」

 遠慮がちな声が響いた。
 部屋の入り口から、豪華な着物を纏った少女が顔を覗かせている。

「妖ノ宮か。遠慮せずとも入るが良い」
「はい。これを部屋に飾ろうかと思って」

 妖ノ宮は大事そうに大きな籠を抱えている。  そこには見事な枝振りの桜の花が差してあった。

「そうか、もう桜の咲く時期になったのだな」
「ええ、少しは皆の気が引き立つのではないかしら」

 淡い紅色の花々は、部屋の中に明るい趣を添えていた。

「ありがとう、姫。皆も喜ぶだろう」

 籠を部屋の隅に置いて妖ノ宮は鳩羽を振り返った。

「・・・鳩羽も元気になってくれましたか?」
「ああ。姫の心遣いに感謝する」
「前の戦から戻ってからずっと、鳩羽は悩んでいます」
「・・・・・・」

 戦いが終わってから、ずっと考えていた。

 「未来が無い」という春秋の言葉。
 本紀との関係はこじれたままた。
 戦いに勝ってももはや神流河に自分達の居場所は無いのかもしれない。

 少女の澄んだ瞳が鳩羽を捕える。

「やはり、辛いのでしょう?知っている人達と戦うのは」
「戦うことを決めたのは、私だ。姫が悩むことはない」

 かつての主君の誘いを断り、神流河に残ることを決意した。
 彼女が――――妖ノ宮がいなければ、違う道を選んだかも知れない。

「・・・神流河は鳩羽の働きに十分酬いてはいません。抱く理想が異なる以上、大叔父との対立は避けられないことでしょう。
ですが、あなたが神流河生まれの人であったなら、これほど蔑ろにされることはなかったはずです!」
「私は神流河の人間だ」
「大叔父はそう思っておりません!」

 深い憤りを込めて妖ノ宮は叫ぶ。

「・・・姫」

 彼女が自分のために本気で怒ってくれている。
 鳩羽の心は和んだ。

 妖ノ宮が急に肩を落として呟く。

「・・・艶葉にいれば、鳩羽がこんな思いをすることはないのに。あなたが望むのなら、私だって――――」
「私は、あなたを神流河の後継者にするために後盾になったのだ。ここで投げ出すわけにはいかない。最後まで戦わねば」

 何より、妖ノ宮から故郷を奪うわけにはいかない。
 祖国を失うことがどれほど辛い事か、彼女は知らない。
 いつまでも、知らないままでいて欲しい。

「既に戦いは始まっている。今更退くことはできぬ」

 妖ノ宮はしばらく俯いて唇を噛み締めていた。
 何かを思い出したように顔を上げると、鳩羽に歩み寄った。

「そうだわ。この前、ちょっとしたまじないを教えてもらったの。鳩羽に掛けてあげるわ」
「まじない?妖術の類は止めてくれないか」
「大丈夫よ、危険なものじゃないから」

 妖ノ宮は鳩羽の目の前に立つと、少し考え込んだ。

「えー・・・。そうね、ちょっと目を瞑っててくれない?」

 鳩羽は素直に目を閉じた。
 彼女に危害を加えるつもりが無いのはわかっている。
 何をするつもりか知らないが、自分のためを思ってのことに違いない。

 暗闇の中で、じっと待つ。
 しばらくの間は密やかな衣擦れの音が聞こえるだけだった。
 やがて、躊躇いがちに妖ノ宮の手が肩に触れた。
 彼女が身を乗り出す気配がし、そして・・・。

 最初は何が起きたのか、理解できなかった。
 だた、唇の上に羽毛のような柔らかな感触を・・・。
 それが何であるかを理解するより早く、鼓動が早まる。

 いや、まずい!
 この状況は、まずい。
 ついこの間、彼女への想いを自覚したばかりなのだから。

 目を開くと、妖ノ宮は慌てて身を離し、その場に座り込んだ。
 頬を真っ赤に染め、俯いたまま、おずおずと尋ねる。

「元気は・・・出ましたか・・・・・・?」
「・・・妖ノ宮・・・?」

 妖ノ宮はかばっと顔を上げ、鳩羽と視線が会うと、一層顔を赤くして俯いた。

「この頃ずっと、鳩羽は元気がないから・・・何か私にも出来ることはないかって・・・聞いてみたら、こうするのがいいと・・・教えてもらって・・・・・・」
「いや・・・だからそれは・・・・・・」
「こ、効果無かったですか!?そういえば、少しも好意を持ってくれない相手には逆効果だとも・・・ああ・・・どうしましょう・・・」

 どうやら、彼女は自分の行動がどんな意味を持つのかわかっていないようだ。
 ずっと人目に触れる事無く深窓で育てられ、南風に来てからは鳩羽と話すか政治活動に励むかが妖ノ宮の日常のほとんどであったのだから。
 もっと同じ年頃の若者達と付き合っていれば違っていたのだろうが。

「鳩羽・・・ごめんなさい。気を悪くしましたか?」

 悄然とする妖ノ宮。

「いや、そういうわけではない」

 まだ唇には彼女の唇の感触が残っている。
 一瞬にも永遠にも思える甘美な一時。
 迷惑どころか、もう一度、彼女に触れたいとすら・・・。

 だが、今は駄目だ。
 せめてこの苦境を打開し、未来に希望が持てるようになるまでは。

 不安げな表情で自分を見上げる妖ノ宮に優しく語りかける。

「妖ノ宮。あなたのその気持ちだけで十分だ。だた、こうしたことは・・・その・・・誰か、特別な相手が出来た時にするものだ。夫婦など」

「・・・ひょっとして、私、とんでもないことをしてしまったのでしょうか?」
「いや、もう気にしなくていい。・・・もしやと思うが、他の者にもしていないだろうか?」

 妖ノ宮は激しく頭を振った。

「他の人にはしたくないんです!何故かわからないけど・・・」
「そうか、それならいい」

 安堵する鳩羽の耳に、

「・・・今度会ったら、飛び膝蹴りをしてやるわ・・・」

 という声が入ったような気がした。




「お役に立てたなら、いいんです。鳩羽や兵の皆が辛い戦いをしている時に、安全な所で待っているのは苦しいもの。
いっそのこと、私も一緒に戦場に出たいくらい。でも、何の役にも立てないわね・・・」
「姫、そこまでしなくとも・・・」

 苦笑しかけた鳩羽の脳裏に閃くものがあった。
 士気を上げ、戦いに完全な勝利を収める、その方法は――――!


 妖ノ宮を振り返る。

「少し外して欲しい、妖ノ宮」
「はい、お邪魔しました。戦が早く終わるようお祈りします」
「ああ、案ずることは無い、次で終わる」

 確信に満ちた鳩羽の口調に妖ノ宮は不思議そうに彼を見上げ、微笑した。




 鳩羽は再び一人きりになって、陣地周辺の見取り図を広げる。
 もはや彼の心に迷いは無かった。

 この手で未来を掴み取り、大切なものを全て守りきる。
 兵たちも、愛しき姫も。