眼鏡騒動



 夜の南風陣地。
 既に日は落ち、廊下には明々と火が灯されていた。

(さて、次はどんな手を打ちますか……)

 考え事をしながら歩いていた輝治は、どしんと何かにぶつかった。
 硬い音を立てて眼鏡が地に落下する。

「うわっ!?」
「おう、気ぃつけな」
「何をふざけたことを……」

 裸眼で見上げても、その影の大きさは見て取れた。
 これはきっと、あの豪徳屋の強面の用心棒だろう。

「ま、まあ、今回ばかりは見逃してあげましょう」

 輝治は視線を逸らしたまま、眼鏡を拾いそそくさと部屋へ逃げ帰った。

「ふう…………」

 天才にあるまじき屈辱。
 天下を握った暁には、もっと強そうな護衛をたくさん雇うことにしよう。
 輝治は楽しい空想で気を紛らわすと、机の上の蝋燭に火を灯した。

「ん?」

 小さな炎はいつものように明々と周囲を照らしている――――はずが、火をつける前のように視界が暗く淀んで見える。
 眼鏡が汚れているのだろうか?
 そう思って輝治は小さな布を取り出す。

(これだから安物は……)

 ぶつぶつこぼしながら眼鏡を外すと、突然辺りが明るくなった。
 手元を見ると、握っていたのは見慣れた自分の眼鏡ではなく、黒い別の眼鏡だった。

(なんだこれは……あ、まさか)

 輝治は偽の眼鏡を掴んで部屋を飛び出すと、陣地の入り口へと向かった。
 夜番の兵士達がちらほら見えるだけで、他の人間はいない。

「豪徳屋の連中を見なかったか!?」

 手近にいた若い新兵に問いかけると、彼はのんびりとした口調で答えた。

「その人達ならもう帰りましたよ」
「何だって!?くそ、こんな眼鏡じゃ真っ暗で何も見えやしない」
「お先真っ暗というわけですか」
「縁起でもないことを言うんじゃない」

 むっつりと輝治は言い返すと、すごすごと部屋に戻った。
 明日豪徳屋まで行くしかないようだ。

(全く、忌々しい…………)

 眼鏡が無ければ部下の報告書も読めず、本紀への文も作成できない。  やけのように布団に潜り込み、明日を待つのであった。  明るい光が差し込み、青い空は今日もまた良い天気であることを地上に告げていた。
 ぼんやりとした部屋の中を憂鬱そうに見回しながら、輝治は起き上がった。
 眼鏡を掛け、焦点を合わせれば気分も引き締まるのだが。

(しかし、眼鏡が無いと歩きにくいですねえ)

 出かける支度をしながら輝治は愚痴をこぼす。
 黒い眼鏡は視界が暗くなるだけで何の役にも立たない。

(あいつも何故こんなものを使っているんだ。せめて普通の眼鏡であれば苦労しないものを)

 背後でがらりと景気のいい音を立てて障子が開く。

「輝治、眼鏡を無くしたんですって?」

 障子の向こうから現れたのは、妖ノ宮だった。
 好奇心に瞳をきらきらさせて、輝治のほうを見ている。

「何ですか、藪から棒に……出かけるところなんですから、邪魔しないで下さいよ」
「女中、最高級の眼鏡を!」

 妖ノ宮が叫ぶと同時に、女中達がずらりと並んだ。
 思わず怯む輝治をよそに、妖ノ宮の前に次々と眼鏡が捧げられる。
 その一つを取り上げて、妖ノ宮は輝治の前に差し出した。

「はい、とにかく掛けてみて!」
 好奇心に輝く妖ノ宮の瞳に気圧されつつ、輝治は眼鏡を受け取った。
 黒いふちの厚手の眼鏡。

「ふん、見栄えはよくありませんが、使えるならよしとしましょう…………?」

 眼鏡を掛けて見たというのに、何も変わらない。
 外してよく見ると、中には何も入ってなかった。

「何ですか、これは」
「伊達眼鏡!普通に掛けてるように見えるのよ!」
「意味ないでしょうが」
「じゃ、これは?」

 妖ノ宮の手の上に乗っているのは、片方が赤、もう片方が青の眼鏡であった。

「…………」
「これを掛けると飛び出して見えるの!」
「何も変化はありませんが」

 掛けてみても、視界がおかしくなるだけであった。

「ああ、特別の施設が必要なんですって」
「関係ありませんよ、私には」
「じゃ、これ!」
「余計な物がくっついているようですが」

 輝治はうさんくさそうにその物体を眺めた。
 眼鏡の下にあるのは、鼻……のように見えるが…………。

「これを掛ければ、ほら!人気者になれるわよ!あはははは!!素敵よ、輝治!!」

 輝治に眼鏡を掛けると、妖ノ宮は一人で笑い転げている。
 輝治は眼鏡をむしりとった。

「私をさらし者にする気ですか、あなたは!」

 勢いのまま部屋を飛び出そうとして、壁に頭を打ち付けた。

「くくく…………」
「しょうがないわね。これは佐和人に掛けてもらうわ。じゃ、今度は……」
「普通の眼鏡にして下さいお願いします」

 尚も面白い眼鏡を探そうとする妖ノ宮に、輝治は思わず懇願するのであった。




「ああ、あなたですか。眼鏡ならこの通り、大事に預かってますよ」

 坊主頭の用心棒・重松が掛けているのは、輝治の眼鏡であった。

「……返して頂けますか」
「世界って、明るかったんですねえ」
「はあ?」

 重松のしみじみとした口調に輝治は思わず間の抜けた声を上げる。
 目を潤ませながら、重松は語り続ける。

「いえ、つまらないことを申しました。では、お返ししましょう」

 皮肉な笑みを浮かべると、重松は眼鏡を返し、黒い眼鏡を掛けて店の奥へ消えていった。

(日の当たる場所か。ふん、言われなくてもいつかはそうしてやりますよ)

 物思いにふけったまま、夜遅くまで眼鏡を磨き続ける輝治であった。