「何だ、あれは」
傍らの文官が顔を上げ、不思議そうに答えた。
「楽の音……ではございませんか」
「…………」
近頃、妖ノ宮は盛んに三味線の練習をするようになった。
それはいいのだが、問題は弾き方である。
技巧も風情も無く、叩きつけるような乱雑な音色。
「新しい芸術」だと当の本人は誇らしげに答えていたが、本紀にしてみればただの騒音である。
頭痛をこらえつつ、本紀は仕事に没頭した。
覇乱王が死去し、四天相克が始まって以来、妖ノ宮は様々な客を座所に招くようになった。
一体どこで見つけてくるのか、本紀には馴染みの無い奇妙な客もいる。
それも何かの役に立つかと放っておいたが・・・。
本紀は嘆息しつつ、ここ最近の珍事を思い起こしていた。
青く澄み渡る空、穏やかな風。そんな心地よい午後。
本紀は自慢の庭園にて、のんびり散策を楽しんでいた。
がさがさと草を掻き分ける音。
黒い影が茂みから飛び出した。本紀は慌てて飛び退る。
庭の隅から見ていると、犬や猫など何種類もの動物が庭を駆け抜けていった。馬や猪まで混ざっている。
「な、何事だ!?」
動物の群れが姿を消すと間も無く、激しい雨音が響く。
にわか雨かと空を見上げても、雲ひとつない晴天である。
雨の一粒も落ちてはこない。
後でわかったことだが、雨が降ったのは妖ノ宮の座所のみであった。
彼女が呼び出した「客」の手品であると説明されたが・・・。
手品の域を超えた奇怪な現象に、百錬京ではしばらく「妖ノ宮の起こした怪異」として噂になったのだった。
また、妖ノ宮は妖の領域にも平然と首を突っ込み、四天王の伽藍どころか人間の立ち入らない沈蛇湖まで出かけていくのだ。
「全く、わざわざ人間嫌いの妖にまで会うとはお前の気が知れぬわ。流石は妖の娘か」
妖ノ宮は大叔父の嫌味を涼しい顔で聞き流し、
「あら、大丈夫よ。『お前は美しい』と言われたんだから」と答えるのだった。
本紀は絶句するのみであった。
日が傾き、空が茜色に染まり始めた頃。
仕事を片付け、廊下を歩いていた時のこと。
風に乗って焼け付くような熱気が吹き付ける。
物の焦げるような臭い。ごうごうと唸るような独特の音。
(また、火遊びをしておるのか)
一言言ってやらねばなるまいと、妖ノ宮の座所に足を向けたその時、空の赤よりなお赤い、灼熱の炎が瞼を刺す。
空の彼方へと駆け去ってゆくのは、巨大な頭に炎を纏わりつかせた奇妙な妖怪であった。
そう言えば、今日もまた妖に会いたいと言っていたような。
忙しいあまりについ聞き流してしまったが……。
呆然と空を仰ぎつつ本紀は、妖ノ宮の将来に対して大いなる不安を抱くのであった…………。
やがて、時は過ぎ、四天相克も落ち着いた。
妖ノ宮は嫁ぎ、座所を去っていった。
覇乱王の姫に相応しくない身分の相手に世の人々は首を傾げた。
「行ってしまわれましたね。流石に本紀様も寂しくなられましょうな」
「ふん、せいせいするわい。これでまたゆっくりと茶が飲める」
やけに実感の籠った口調に領主は不思議そうな顔をした。
「ま、まあ、いずれにせよ、結構な事です。いささかご身分が不釣合いに思えますが」
「人間であるだけ、ましだ」