迎える人


 白い垂れ布の無効から、眩しい朝の光が差し込んでくる。
 暖かな日差しに身を浸しながら、妖ノ宮は、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「?」

 縁側から陣地を見渡して、妖ノ宮は違和感を覚えた。
 いつもに比べて、兵の数が少ないような気がする。
 まだ南風にきたばかりなのだから、これがいつものことなのかどうか、よくわからないのだが。

 朝餉の膳を運んできた女中に尋ねる。

「朝早く、鳩羽将軍が出陣なさいました」
「・・・そう」

 茶碗を手に取ると、炊き立てのご飯の香りが備考をくすぐる。鳩羽はこのように食事をゆっくりと味わう余裕もなく、戦に出て行ったのだろう。
 味噌汁の椀を口に運びながら、妖ノ宮の視線は知らず知らずのうち、表へとさ迷っていくのだった。


 造られたばかりの新しい陣地。
 平らに均された地面を囲む、簡素な木製の柵。
 その向こうには、どこまでも続く緑の草原と、たくさんの木が生い茂る山。

 部屋の壁は大きく開き。白い布で内部を隠せるようになっている。

 城にいた頃には、四方を厚い壁に囲まれ、高い塀に閉ざされた小さな世界に住んでいた。城が落ちる心配など、したことがなかった。
 新しい住居は城より遥かに質素だが、開放的な感じがして、妖ノ宮の気に入った。
 だが、こうして取り残されてみると、木の壁や柵は少々頼りなく、心細くなってくるのだった。




 陣地が再び元の活気を取り戻したのは、空が茜色に染まる頃だった。
 人馬の声や足音が飛び交い、負傷者が運び込まれ、疲れた兵達は、休息と暖かい食事を求めて屋内へと戻る。

 鳩羽将軍が自らの部屋へと戻る頃には、夜空に星がきらめいていた。

 廊下の端に、見慣れない鮮やかな色彩を見出して、鳩羽は不審に思った。

「妖ノ宮?」

 壁に寄りかかって入り口の方を見つめていた妖ノ宮は、身を起こして鳩羽を見た。

「おかえりなさい、鳩羽」
「ああ、ただいま、妖ノ宮。どうしたのだ?」

 妖ノ宮は、少し俯いて、口元を袖で覆った。

「ええ、あの、何だが落ち着かなくて。急に静かになるものだから」

 心細げに呟く姫に微笑んで、鳩羽は、
「案ずることはない。守りに必要なだけの兵は常に置いてある」

 落ち着き払った鳩羽の答えに妖ノ宮はうっすらと頬を染めて、
「そうよね。ごめんなさい、戦のことはよく知らないものだから」

 真剣な瞳で鳩羽を見上げた。

「今度教えてもらえるかしら」
「うむ、いつでも来ると良い」

 そう答えて、鳩羽は表情を引き締めた。

「いざとなれば、あなた一人だけでも逃げられるように手は打ってある」

 大きな茶色の瞳が驚いたように鳩羽を見つめる。
 会ったばかりの後ろ盾から、そのように言われるとは思わなかった。

「あなたを引き取った以上、その見は私が守る。あなたは何も恐れずとも良い」
「…・・・ありがとう、鳩羽。でも、私はあなたと共に戦うために来たのだもの、自分だけ逃げるつもりはないわ」

 しっかりとした妖ノ宮の口調に、鳩羽は微笑んだ。

「さすがは覇乱王の娘御、勇敢な御方だ。あなたの助けが必要な局面もあろう。これからも宜しく頼む」
「はい!」

 妖ノ宮も笑い、しっかりと頷いた。




 その後、鳩羽将軍が戦場から帰還する度に、嬉しそうに駆け寄る姫の姿が見られた。
 彼女の顔を見て、将軍もようやく緊張を解き、くつろいだ表情を見せるのだった。

「お帰りなさい、鳩羽! ――――あら」

 いつものように後ろ盾を迎えた妖ノ宮は、鳩羽の顔を見上げ、小さく声を上げた。

「血が出ているわ」

 頬を拭おうとする小さな手をとっさに鳩羽は掴んでいた。

「あ・・・ごめんなさい」

 寂しげに小さく呟く妖ノ宮。
 鳩羽はそっと手を離した。

「すまない。ただの返り血だ、案ずることはない。あなたの手が汚れてしまう」
「これぐらい大丈夫よ。私はずっと部屋にいたんだもの、鳩羽の方がずっと汚れてるじゃないの」

 妖ノ宮は微笑むとそっと血の跡を拭った。
 不思議なほど快い感触。

「傷がついてないのなら、心配はないのよね。でも、怪我をすることもあるのでしょう?」
「戦に出る以上、それは覚悟の上だ。だが、私はまだ倒れるわけにはいかない。必ず戻るから、姫は安心して待っていてくれ」  妖ノ宮は不安を振りほどくように笑う。

「ええ、鳩羽はとても強いものね」




 小さな影がぽつんと一つ、薄暗い廊下に佇んでいる。
 不安げな眼差しが時折、建物の入り口に注がれる。

 そろそろ鳩羽が帰ってくるはずだ――――失望を胸に抱いて。
 本紀の命により、各地の城を預かる守備兵が本国へと引き上げられた。

 まもなく城は古河に奪還され、鳩羽軍は後退を余儀なくされるだろう。
 ここ最近の戦果が水の泡と化してしまう。


 後ろ盾の帰りを待ち焦がれながら、妖ノ宮はどのようにして彼を迎えたらよいのかわからなかった。
 神流河の姫でありながら、自分には何もすることができなかった。
 鳩羽の紀を引き立てるようなことが、できるのだろうか?
 いくら考えても、答えは出ない。

 待ち望んでいた足音に、妖ノ宮は顔を上げた。
 鳩羽に歩み寄ろうとして、躊躇する。
 鳩羽は厳しい表情のまま、妖ノ宮の方を見ようともせず、足早に部屋へと向かってゆく。
 妖ノ宮は俯き、黙って鳩羽に道を開けた。

 ふわりと頭を包み込むような暖かさを感じた。
 見上げると、もう鳩羽は妖ノ宮に背を向けていて、そのまま部屋に入ってしまった。


 手の内に残る優しい感触に鳩羽は戸惑っていた。
 救いを求めるように妖ノ宮に手を差し伸べていた。無意識の内に。

(妖ノ宮・・・)

 自分にはまだ彼女がいるのだと奇妙な安堵感が心の奥に残っていた。




「お帰りなさーい!」

 屋根の下に入った途端、満面の笑顔で出迎える妖ノ宮に鳩羽は苦笑した。

「今日はあなたも共にいたではないか、妖ノ宮」
「そうだけど、やっぱりこうしないと落ち着かないわ」

 そのまま二人連れ立って廊下を歩いた。
 鳩羽が部屋に腰を落ち着けると、妖ノ宮もその傍らに座を占める。

「今日は本当に助かった。改めて礼を言う」
「いい、鳩羽こそ助けてくれてありがとう。一緒に帰ってまた波止場を迎えることができて嬉しいわ」
「ああ、ここであなたの顔を見ると、帰ってきたのだと実感できる。これからしばらくはここを空けなくて済むだろう。しばらくの間だけかもしれないが」
「いいわ、いつでも迎えてあげるから」

 少し戦のことや今後のことを話し合った後で、鳩羽が言った。

「妖ノ宮、疲れてはいないか? 夜の宴に備えて休んでおくといい」
「疲れてはいないけど、お風呂に入って着替えてこなくちゃ。今夜は戦勝祝いと、私達の・・・」

 妖ノ宮の白い肌がみるみる赤く染まる。
 鳩羽は彼女に笑いかけた。

「そうだな、祝言の準備もしなくてはいけない。今夜は皆が祝ってくれるだろう」

 妖ノ宮は満ち足りた笑みを浮かべ、鳩羽に寄り添う。
 胸に寄りかかる暖かさを感じながら、鳩羽は生涯このぬくもりを守らなくてはいけないと、心に誓う。