最期の刻



 静かな夜だった。
 風はそよとも吹かず、月の無い夜空には、星だけが冷たく煌いている。

 灯火が揺らめく。
 緋色の絹を翻し、妖ノ宮は表から部屋の中へと視線を移した。

 鳩羽は瞑想するように瞳を閉じている。
 妖ノ宮が前に座ると、ゆっくりと目を開いた。

「部屋に戻るのではないか?」
「いいえ。今夜は眠る気にはなれないもの」
「そうか。明日は百錬京に行く。疲れない程度に休んでおくといい」

 妖ノ宮は軽く頷いたが、座ったまま動かない。
 鳩羽も強いて休息を勧めることはしなかった。
 無理も無いことであろう。

 明日、ここを出れば生きて帰ることはない。
 彼らは四天相克の敗者となったのだ。


 妖ノ宮は懐かしげに辺りをを見回した。
 何度もこの部屋を訪れ、多くの事を教わった。


 ――鳩羽について南風を訪れた、忘れ難いあの日。

 あれから一年も経っていない。
 それでも、城の中に籠っていた十年よりも、遥かに密度の濃い時間であった。

 ここで終わろうとも悔いは無い。
 ただ一つ、残念なことは、鳩羽の願いを叶える事ができなかったこと。

 鳩羽と目が合う。
 彼は、辛そうに目を伏せた。

「済まなかった。あなたを守るつもりであったというのに」

 最初から、勝ち目の薄い戦いであることは承知だった。
 敗者として裁かれる覚悟はあった。
 彼女をそれに巻き込みたくはなかった。

「私だって、あなたの役に立てなかったわ。でもいいのよ。何があってもあなたと運命を共にするつもりだったのだから」

 妖ノ宮は、鳩羽に近づいた。

「城で暮らしていた時、一つだけ恐れていたことがあるわ。あのまま、誰とも心を通わすことも無く、一人きりで死ぬこと。
こんな結果になってしまったけど、あなたが最初に私達は一蓮托生だって言ってくれた。
何があってもあなたがいてくれるとわかったから、私はずっと幸せだったのよ」

 薄暗い部屋の中で、少女の瞳は明るく輝く。
 その眼差しに心が満たされるのを、鳩羽は感じる。
 この優しい、暖かな存在が傍らにあったからこそ、自分は戦ってゆくことができたのだ。

「ああ、あなたと過ごした日々は悪いものではなかった。そして、今あなたがここにいてくれることを嬉しく思う」
「寂しかったのですか?」

 からかうように妖ノ宮が微笑む。

「・・・そうかもしれないな」

 一人で全てを背負う覚悟をしながら、彼女が最後まで共に歩んでくれることを期待していた。

「親しくしてくれた人達には、もうお別れを言ったわ。だけど、あなたには言いたくないの」

 妖ノ宮は真剣な眼差しで鳩羽を見上げた。

「だから、最後まで一緒にいさせて。お願い」
「・・・妖ノ宮。もう少し、側に来て欲しい」

 手を差し出す鳩羽に、妖ノ宮は大きく瞳を見開いて戸惑った様子を見せたが、躊躇いがちに彼の側に歩み寄った。
 艶やかな黒髪が揺れ、芳香が辺りに漂う。
 白磁のような肌に朱が差し、桜の花びらのような唇は物問いたげに微かに開いていた。
 光を帯びた茶色の瞳はひたむきに彼を見上げている。

 鳩羽は引き込まれるようにその瞳を見詰めていた。
 心の底から、湧き上がってくる奇妙な感情に戸惑いを覚える。
 ずっと側に居たというのに、何故今まで気づかなかったのか。この、熱い想いに。

 指先にさらりとした感触。
 絹のような黒い髪が手の平を滑る。

 妖ノ宮は頬に触れる手に身を任せるように、顔を俯けた。

 その表情は見詰める彼の胸の炎を激しく掻き立てた。
 もっと彼女に近づきたい。

 鳩羽は衝動のままに小さな体を腕の中へと引き寄せる。
 暖かさが胸の内を満たす。
 小さな手が鳩羽の衣をぎゅっと掴んだ。

 この温もりを離すまい。
 せめて、夜が明けるまでは。