五月雨


 梅雨の晴れ間の青空の下。
 今しも旅立とうする一団がある。

 南風の王加治鳩羽は漆黒の愛馬に跨り、后を振り返った。

「妖ノ宮。後のことは頼む」
「はい。気をつけていってらっしゃいませ」

 馬上から声を掛ける鳩羽に妖ノ宮はにっこり笑って応えた。

「留守の間、妖ノ宮を守ってくれ」
「ご心配なく」
「お任せください!」
 留守居役の沢渡や咲達が頷く。

「では、これで行くとしよう。明日には戻るゆえ」
「ええ、たった一日のことですもの」

 笑顔で夫を送り出した妖ノ宮は彼の姿が見えなくなると密かに溜息を吐いた。

(たった一日だもの)

 沈んでゆく気持ちを浮き立たせるように妖ノ宮はきっと顔を上げると、座所へ向かった。
 新しい国を造って間もない今、やるべきことはいくらでもある。




 鳩羽が南風に国を興してから三ヶ月が経とうとしていた。
 その間に人は増え、新たな町もでき、徐々に国の形は整ってゆきつつある。

 妖ノ宮は后として忙しくとも幸福な日々を送っていた。
 最大の脅威であった古閑との戦が終わり、鳩羽が戦場へ出ることが少なくなっていたため、多くの時間を共に過ごす事ができるようになった。

 今夜は夫婦となって以来初めて離れ離れに過ごすことになるのだ・・・。




 ざあっと賑やかな雨音が響く。
 水気を帯びた涼風が部屋の中まで吹き付ける。

 妖ノ宮は縁側から外を眺めた。
 開いたばかりの紫陽花の花が、雨粒を受けて微かに揺れている。

 憂いを帯びた瞳が寝所の片隅へと向けられる。
 そこには、朝摘んだばかりの紫陽花。
 薄紫の花は、瑞々しい光を帯びて薄明かりに輝いていた。

(綺麗に咲いたから、見てもらいたかったのに)

 思わずそう呟いてから、妖ノ宮は恥じ入った。
 今日だけではないか。
 祝言を上げてから間もないとはいえ。

(さっさと寝てしまいましょう)

 そう決意して布団に潜り込む。

 だが、どうしても視線が横に流れてしまう。
 いつも二人一緒に寝ているから、今日は特に広く見える。
 白い空間は冷え冷えとして、心の中に隙間風を忍び込ませる。

 今頃、鳩羽はどうしているだろうか。
 お酒でも飲んでいるだろうか。
 自分と同じようにこうして一人の寂しさを味わっているだろうか。

 ・・・明日、無事に帰って来てくれるだろうか。


 馬鹿馬鹿しい、取り越し苦労にも程がある。

 妖ノ宮は頭から布団を被り、固く目を瞑った。
 眠ってしまえば早く朝が来る。
 そして、鳩羽が帰って来るのだ・・・。




 ゆらゆらと、漂っていた意識が浮上する。

 目蓋を開けば、そこに見えるのはいつもと同じ城の中の自分の部屋。
 周りには誰もいない。
 ここから出ることもできない。

 今日もまた、他愛ない空想で時間を潰す。
 そう、その中でなら、どこへも行ける。何でも手に入る。

   広い世界も、自分の王国も、素晴らしい夫も。
 さあ、次はどんな世界を思い描こうか――――。




 妖ノ宮は暗闇の中で目を開き、慌てて起き上がった。
 真新しい、かつて住んでいた城に比べて簡素な部屋。
 だが、遥かに愛着のある部屋だ。

 どっと冷や汗が流れ落ちた。
 ここは確かに南風の自分の――――自分と鳩羽の寝室だ。
 夢などではない、こちらが現実なのだ。

 不安げな視線が、布団の広い空間に向けられる。

 鳩羽がいない。

 ここに彼がいてくれれば、不安はすぐに消えるのに。
 一言声を掛けてくれれば、笑うことができる。
 触れてくれればまた幸福な気持ちになれる。

 溢れる涙を慌てて押える。
 ふと、目に付いたものがあった。

 布団の横に置いてある青い布。
 鳩羽がいつもしている眼帯だ。
 裂け目ができていたので、縫い直して置いておいたものだ。

 青い布を抱きかかえて布団に潜り込む。
 少し、心が暖かくなる。
 今度はちゃんと眠れそうだ。

 雨は絶え間なく降り注ぎ、誰も知らない涙を押し流してゆく。




 翌朝。
 雨は止んでいたが、まだ空は重く垂れ込める雲に覆われたままだった。

 妖ノ宮はしばらく陣地の入り口の方を睨んでいたが、表情を固くして再び仕事に戻った。




 日が高く昇った頃。
 座所の入り口の方から人の声がする。

 でも、まだ鳩羽が帰って来るまで間があるはず。
 そう思って妖ノ宮は机から顔を上げる事無く本を読み続けていた。

「・・・妖ノ宮」

 奇妙なほどに懐かしく感じる声。
 部屋の外から遠慮勝ちに声を掛けているのは――――。

 妖ノ宮は飛びつくように襖を開ける。

「今帰ったところだ。済まない、読書の邪魔だったろうか――――」

 鳩羽の言葉は胸に飛び込んできた妻によって中断された。

「妖ノ宮?何か、あったのか?」

 不安そうに尋ねる鳩羽を見上げ、妖ノ宮は微笑んだ。

「何でもないの、帰ってくれて嬉しいわ。――――ちょっと、寂しくなっただけ」

 小さな声で一言呟く。
 暖かな腕が妖ノ宮の身も心の包み込む。

「心配は要らない。こうしてあなたの元に帰ることができた。待っていてくれるあなたがいることを、嬉しく思う」




 止んでいた雨は夜に再び降り出した。
 だが、今夜の雨は優しく大地を潤すようだ。
 雨蛙が賑やかに啼き始めた。

「綺麗に咲いたでしょう?これからだんだん色が変わってくるの。見てると面白いわよ」
「ああ、見事に咲いたものだ」

 紫陽花の花は流れ落ちる雨粒の中で一層美しく咲き誇る。
 二人寄り添って庭を眺め、他愛ない会話に興じる。
 とても大切な、当たり前の光景。

「鳩羽、疲れていないかしら?今日はもう休みましょうか」
「いや、心配には及ばない。だが・・・」

 鳩羽が手を差し出す。妖ノ宮は少しはにかみながら自分の手を重ねた。
 布団の上で寄り添いながら、二人共にある喜びを噛み締める。

「あなたがいないと、やはり物足りない。これからもずっとこうしていたい」
「ええ、ずっと、あなたと一緒に」

 寂しい気持ちは跡形も無く消えていた。
 鳩羽が側にいる。
 その温もりが心地良く心を満たした。

「あなたが、帰って・・・来てくれて・・・よか・・・った・・・・・・」
「・・・妖ノ宮?」

 鳩羽は軽く身を起こし、妻の顔を眺めた。
 満ち足りた表情で瞳を閉じている。
 顔を寄せるとゆるやかな呼吸が耳をくすぐった。

「・・・・・・・・・・」

 鳩羽は困惑したまま、片腕で幼な妻の頭を抱きかかえた。
 彼女は幸福そうな顔のまま夫に身を委ねていた。

 ――――起こす気にはなれなかった。

(まあ、いいか)

 小さく吐息をつき、鳩羽は頭を枕の上に落とした。
 今は彼女の傍らにいられるだけで、十分に幸福だ。

 さらさらと絹のような髪を掻きやると、小さな尖った耳が現れた。
 わずかに妖の特徴を示すもの。
 それすらも、今は愛しい。優しく桜色の小さな耳を撫でる。幸福感が胸の内に溢れてゆく。

 鳩羽は最愛の妻の体を引き寄せ、寄り添ったままで眠りに落ちた。
 明日もまた、多忙な一日が始まる。
 それまで、しばしの休息を。