広い空、新しい世界


「私があなたの後盾となった。共に南風へ来てもらえないだろうか」

 初めて会うその人に、私はただ頷いて答えた。
 何の感情も見せずに従う私を、彼――――加治鳩羽将軍は、戸惑ったように見ている。

 人に見せる感情など、私の内には存在しなかった。
 幼い頃にこの城に連れて来られてからずっと、私は一人だった。
 訪れる人も無く、使用人達は皆半妖の姫を恐れて近づかない。
 感情の遣り取りなど、全く無かった。

 「寂しい」という気持ちすら、いつしか忘れていった。
 人でも妖でもなく、ただ人形のように過ごした日々。
 過去への未練も未来への恐れも無かった。

 今度は父の代わりに、別の人間が私を何処かに閉じ込めるようになった、ただそれだけのことだろう。
 私は振り返りもせず用意された駕籠に乗り、十年を過ごした場所を後にする。




 思った以上に長い間駕籠に揺られ続け、ふいにその動きが止まる。
 地面に降ろされる感覚。
 もう着いたのだろうか。


 足音が近づいてきて、駕籠の前で止まる。

「妖ノ宮、疲れてはいないか?休憩を取るゆえ、あなたも外に出て休むと良い」

 外?

 そうすることに何の意味があるのだろう。
 だが、そう言われて全身が強張っているのに気がついた。
 こんなに長い間、乗り物に乗っていたことはない。
 手足を伸ばすのもいいだろう。

 扉を開けると、さっと涼しい風が入り込んできた。
 光が溢れる。
 眩しさに目を細め、空を見上げた。




 一面の青だった。

 遮るものの無い、広い大きな世界。
 遥か高みから、鳥の囀る声が聞こえてくる。
 緑の草原はさらさらと風に揺れ、どこまでも続いていた。

 こんな広い世界は知らなかった。
 城の庭から見える空は、塀と山に遮られた小さなものだった。
 長い城での暮らしは、外にこんな世界が存在していることを忘れさせてしまったのだ。

 そっと一歩、前に足を踏み出す。
 柔らかな土の感触が新鮮で、私はうろうろと辺りを歩き回った。


 すぐ近くを小川が流れ、木の根元に馬が数頭繋がれている。
 涼しげな音を立てて流れる川の水を、馬は美味しそうに飲んでいた。


 近づこうとすると、
「姫、あまり近づいては危ない」
 制止の声が上がった。

 眼帯を着けた瀬の高い男が私を見下ろしていた。
 鋭い眼光とは裏腹に、その口調は穏やかで優しかった。

 初めて彼を「人」として認識したような気がする。
「えぇ、気を付けるわ。あなたの馬はどれかしら?」

 鳩羽は微笑むと、大きな漆黒の馬の背を撫でた。
 馬が高く嘶く。

「これが私の馬だ。共に戦場を走る、掛け替えの無い戦友でもある」

 手の平の塩を愛馬に舐めさせながら、鳩羽は誇らしげに紹介した。
 つやつやとしたたてがみを見詰めながら、私は尋ねる。

「私も乗っていい?」

 鳩羽は少し驚いたような顔をした。
 私も内心、彼に劣らず驚いてきた。
 なぜ、こんなことを聞く気になったのだろう?

「そうだな・・・・・・陣地の中を歩かせてみるぐらいはいいだろう」

 その答えに再び私は驚きを感じる。
 彼の扱いは父とは違うのだろうか?
 南風では、今までと違った生活が待っているのだろうか?

 城の中でそう言われたとしても、私は信じなかっただろう。
 だけど、この美しく広い空の下では信じられる。

「もう一度、ここに来てもいい?」
「ああ、但し一人ではいけない。必ず護衛を連れて行って欲しい。あなたの身に危険が及ぶ恐れがある」
 私は思わずまじまじと鳩羽の率直な目を見た。
 再び、思いがけない言葉が口から飛び出す。

「鳩羽も一緒に来てくれる?」

 鳩羽は少し考えた後、答えをくれた。

「多忙ゆえ、中々機会は無いだろうが・・・・・・たまにはいいだろう」
「本当?」

 空に溶け込むような青い衣を風に靡かせて、鳩羽は微笑んだ。


 目の前に開けた広い世界を、私は喜びをもって受け入れる。
 何があっても、これからの時間を幸福だったと思うことができるだろう。