鳥籠の姫



「鳩羽様。やはり毒見役を置くべきです」

 沢渡はきっぱりと断言した。
 鳩羽は眉間に皺を寄せたまま、沈黙している。

「ご不満は最もでございますが、鳩羽様の代わりはおりません。神流河を守るためにもご自身の身をもっと気使って頂きたい」

「・・・・・・」

 沢渡の判断が正しいことはわかっている。
 それでも、戦場で常に先頭に立って戦ってきた鳩羽にとって、
他の者を自分の身代わりにとして危険に晒すことはとうてい受け入れがたいことだった。




 鳩羽が四天相克を制してから何年経っただろうか。
 妖ノ宮は覇乱王の世継ぎと認められ、神流河の主として君臨していた。
 だが、真の支配者は彼女の後ろ盾である鳩羽だと、誰もが承知していた。
 鳩羽は卓越した武力により、国内の反対派を抑えることに成功していたが、見えない敵意が時折背に突き刺さるのを感じずにはいられなかった。

 今日もまた、鳩羽の食事に毒を盛ろうとしていた者を発見したばかりであった。
 政敵を排し、神流河の頂点に立つことができたが、皮肉にもそのことによって、敵が増えてしまう。
 理不尽なことであるが、これが政治というものか。

「幸いにもこれまでは未然に防げましたが、いつもこのように上手くいくとは限りません。
鳩羽様が倒れては、神流河は終わりなのです。我々に従って来た者達も、居場所を失ってしまいます。妖ノ宮にも害が及ぶでしょう」

 鳩羽は吐息をついた。
 政治の世界に身を置いてからというもの、つくづく自分には合わない世界だとことあるごとに実感せざるを得なかった。
 この先も慣れることはないだろう。

 しかし、守るべき者達のために、自分は戦い続けなくてはならないのだ。

「・・・わかった。お前に任せよう」
「仰せのままに。案ずることはありません、特別な訓練を受けた者ならば、簡単に死には致しませんから」

 そう言われても、心が晴れることはなかった。
 沢渡が退出し、一人きりになって鳩羽は改めて思い惑う。


 自分が求めていた居場所とはこのようなものであったろうか。
 これで、艶葉の者達も安心して暮らしていけるのであろうか。妖ノ宮を守っていけるだろうか。
 今の生活がいつまで持つのだろうか――――。

 鳩羽は立ち上がり、部屋の外へと踏み出した。

 ひんやりとした風が吹き抜ける。
 三日月が心細げに夜空にかかっている。

 端整に整えられた庭は、いつもに増してよそよそしく感じられた。

 折に触れて懐かしく思い起こすのは、どこまでも広がる草野原。
 緑の山々が大地を見下ろし、鳥や虫が気ままに飛び回り、素朴な野の花が咲き乱れる。
 そして、険しい岩山に囲まれた青い海。

 耐え難い郷愁を振り切るように、鳩羽は足を速めた。
 この城の中で最も平安を与えてくれる場所に向かって。

 華やかな色彩が視界に飛び込んでくる。

「お疲れ様、鳩羽。私は今日も楽しく過ごしたわ」

 妖ノ宮の明るい声と晴れやかな笑顔の前に、一瞬鳩羽は悩みを忘れ、微笑んだ。

「ああ、それならば良い。今日はどのようにお過ごしか」

 招かれるまま、鳩羽は座布団の上に座り、彼女の話に耳を傾けた。
 妖ノ宮は無邪気な笑みを浮かべ、今日一日の報告を始めた。
 いつもその爽やかな声を聞いているうちに、心が和んでゆくのを覚えるのだ。

 主と奉戴する姫。
 実権は全て鳩羽が握り、単なる飾り物として存在していながら、鳩羽を限りなく信頼してくれる彼女。
 ただ守られるだけの存在。

 それなのに、ここに来るたび守られていると感じるのは何故だろう。

「鳩羽、お疲れではありませんか?今日はまた新しい曲を覚えたの。弾いてあげましょう」

 三味線を取り上げる妖ノ宮に頷いて、鳩羽はその華やかな音色に聞き入った――――。




 いつの間にか眠っていたのだろうか。
 ぼんやりした意識の底に浮かび上がるのは、憂いを帯びた表情で自分を見つめている妖ノ宮だった。
 普段とは違う大人びた顔に戸惑いを覚える。

「目が覚めましたか?」

 身を起こすと、いつもと同じ笑顔で尋ねる妖ノ宮。

「あ、ああ。済まない、いつの間にか寝てしまったようだ。妖ノ宮」
「はい、何でしょうか?」
「南風に帰りたくはないか」

 妖ノ宮は一瞬目を見開き、ゆっくりと微笑んだ。

「ええ、もう一度行ってみたいわね。今度はもっとゆっくり海を見てみたいわ」
「それならば、あなたにもっと広い海を与えよう」

 鳩羽の瞳に冗談事ではない光が閃いた。
 妖ノ宮はただ静かに微笑んでいた。
 悲しい予感が瞳の奥に揺れる。

(あなたが、必要なら)

 戦う理由を与えましょう。
 辛い時はそう長くは続かないのだから。