優しい嘘



 太陽が山の端に沈もうとしていた。
 キュウマは赤く染まり始めた空を見上げて吐息をついた。

 ――今日は、会えなかった。

 物足りない気持ちで集落の入り口を眺める。
 薄暗い木立はひっさりと静まり返り。白いマントを翻して歩くアティの姿は見えなかった。
 彼女も暇人ではない。学校に畑の管理にと何かにつけて多忙な身である。毎日ここに来るわけにはいかないのだろう。
 それでも、あの暖かな笑顔が見られないことが無性に寂しかった。

 キュウマは屋敷へと戻りかけた足を止め、集落の外へと向かった。たまにはこちらから出向いてもよいだろう。




 赤い光に照らされた船は、沈黙を保ったまま、波の上をゆらゆらと揺れていた。
 いつもならば夕餉の煙が上がる頃である。
 だが船の内にも外にも人の気配は無く、呼びかける声に応えるものもなかった。

(妙だな。誰もいないとは)

 夕闇の影のように、不安が心に忍び寄る。
 遠い昔――――ついこの間のようにも思えるあの出来事が脳裏に蘇る。

(また、つまらぬ事を)

 我ながら愚かしいと思いつつも、芽生え始めた不安は消え去ろうとしない。

 足早に立ち去ろうとしたその時、島の奥から船に向かってくる気配を感じた。
 海賊船の住人達が戻ってくる――――捜し求めたその姿も、そこにはあった。
 キュウマは声を掛けようとして躊躇する。

 彼らは皆一様に暗く沈んだ顔をして、疲れた足取りで言葉少なに歩んでいた。
 いつも陽気な彼ららしくない態度であった。

 ふと、顔を上げたアティと視線が合う。

「あっ――――」

 気まずそうな顔をする。

「すみません、お邪魔致しました。――何かありましたか?」
「えっと……」当惑した表情でソノラが目を伏せると、スカーレルがその後を引き継いだ。
「ちょっと帝国軍の奴らに会っちゃってね」彼の言葉にうんうんとソノラが頷く。
「え!? ご無事でしたか!?」
「心配すんな! 全部俺達で追っ払ってやったからよ!」豪快に笑ってみせたカイルの声にも緊張感が残っている。
「そういうことですから、今日はこれで失礼させて頂きます。――――さすがに、少々疲れました」濃い疲労の色を滲ませながらヤードが言うと、
「…………」ベルフラウはちらりとキュウマの方を見て、無言のまま船に乗り込んだ。

 立ち入って欲しくないと彼らの態度が告げていた。
 少々寂しさを感じつつ、キュウマは帰ることにした

「お疲れ様でした。ごゆっくりお休み下さい」


 しばしの間をおいて、ぱたぱたと軽い足音が背後から近づいてくる。
 振り返ると、夕日を溶かしたような紅の髪を潮風に靡かせて、彼女がいた。

「キュウマさん、どうしたんですか? 元気がないみたいですけど……」
「貴方の方が辛そうに見えますが」
「そ、そうですか?」

 慌てたように笑みを浮かべて、アティが答える。

「どうしてここに?」
「いえ、大した用ではありません。貴方も、早く休んで下さい」
「そうですか……。でも、何かあったらいつでも話して下さいね」

 精一杯の笑顔に胸が詰まる。
 自分の悩みも持て余しているような状態で、まだ人の悩みまで聞こうというのか。
 彼女に話したかった――――過去に何を見、どんな思いで今ここに来たかを。
 でも、今はこれ以上彼女の重荷を増やしたくなかった。だから嘘を吐く。

「はい、その時には。ですが、今は何もお話しすることはありません。それより、貴方が無事でよかった」

 ただ一つだけの真実。
 青ざめたアティ顔に赤みが差す。彼女は何か言いたげに口を開いたが、そのまま俯いてしまった。

「優しいですね、キュウマさんは」俯いたまま呟く。
「貴方ほどではありません」

 アティは顔を上げ、少し強張った笑みを見せる。

「今夜いつもの場所で待っていて下さいね! 私、必ず行きますから! 今夜も……」

 微かに震える声。不可解なほどの真剣さが滲む。

「ええ、必ずお会いしましょう」

 アティは表情を緩めて、安心したような笑顔を浮かべた。

(やっと、笑顔を見ることができた)

 そんな感慨が心を満たす。
 互いに抱えている悩みを打ち明ける日はいつになるだろうか。
 それでも、今はこのささやかな幸福を大事にしたいと、そう願う。