仕事の手を止め、鳩羽は問い返した。妖ノ宮は期待を込めた眼差しで鳩羽を見詰めている。
「ええ、桜がたくさんあって、とそれは綺麗な所だそうよ。鳩羽も見に行かない?」
「うむ……」
鳩羽は少し考え込んだ。
新しい国創りが始まり、多忙な時期ではあった。妖ノ宮も熱心に働いていたが、たまにはどこかへ遊びに生きたのだろう。
「良いではありませんか。鳩羽様も長い間ろくに休みに取らず勤めてこられたのです。たまには息抜きをなさっては」
沢渡が口を添えると、咲も、
「早く行かないと花が散ってしまいますよ!留守番は僕達にお任せ下さい!」張り切って言った。
「では行こうか。妖ノ宮」
「はい!」
咲き誇る花のように妖ノ宮は笑った。
春の野を、軽やかに駆ける黒鹿毛の馬。
手綱を握る将軍はいつになく穏やかな表情で、鞍の前の姫のお喋りに相槌を打っている。妖ノ宮は楽しげ景色を眺めていた。
暖かい、明るい光に包まれた野山は、春の盛りであった。草木は柔らかな緑色に輝いて、吹く風は爽やかに心地よく、
鮮やかな花々をやさしく揺らす。鳥たちは賑やかに春の歌を歌っていた。
小さな町を通り過ぎ、山道を登ってゆくと、ひらひらと薄紅色の花びらが舞い降りてきた。
桜の木は、今を盛りに咲き誇り、辺りを別世界へと変えていた。
ふわふわした桜色の雲が二人を包み込み、夢見心地へと誘い込む。
しばし無言で花を眺めた後、鳩羽は薄紅色に覆われた地面に降り、妖ノ宮に手を差し出した。
その手を取り、妖ノ宮は鳩羽に身を預けた。
「綺麗ね?」
言いたいことはたくさんあるはずなのに、口から出るのはそんなありふれた一言だけであった。
「ああ、来て良かった。そうだな、このままの方がよく見えるだろう」
「え?あの…………」
妖ノ宮はうろたえた。鳩羽は妖ノ宮を抱き上げたまま、周囲を歩き始める。
「ちょっと……恥ずかしいです…………」
消え入りそうな声で呟く姫に、将軍は、
「誰もいないのだから、気にすることはない」微笑んで答えた。
「ええ、そうね」
妖ノ宮はくすりt笑うと、空を見上げた。見渡す限り霞のような淡い花びらに包まれて、外の世界から切り離された二人だけの世界。軽く髪が触れ合うほどに身を寄せて、この世の春に浸りきった。 日が陰り、湿気を帯びた風が花びらを散らす。
「そろそろ帰るとしよう。雨が降るといけない」
「ええ………・・・。そうね、京は帰りましょう」
名残惜しげに桜並木を振り返った後、妖ノ宮も馬の前に歩み寄った。
「来年もまた来よう」
柔らかな微笑で鳩羽が言うと、妖ノ宮は彼を見上げ、
「ええ!新しいお城の周りにも桜を植えましょう。みんなでお花見できるようにね」同じ笑みを返すのだった
>
山道を出、平地に戻った頃から、ぽつりと雨粒が落ち始めた。空はいつの間にか黒い雲に覆われ、微かに雷鳴が聞こえてくる。
「もう降り出したか。急ごう」
鳩羽は馬の足を早めたが、いくらも行かないうちに雨脚は強くなり、風とともに彼らの背に吹きつけた。
「鳩羽、大丈夫?」
妖ノ宮は鳩羽の腕の中から彼を気遣うように見上げた。
「これぐらいはなんでもない。だが、止まないと厄介だな」
小さな町の食堂に飛び込んで、手ぬぐいで軽く雫をふき取り、熱い茶をすすると、ようやく人心地がついた。
日は完全に没し、辺りはどんどん暗くなってゆく。激しい雨音が屋根を叩き、時折、雷光が閃いた。
「止みそうにないわね」
妖ノ宮は当惑した表情で湯呑みを持ち上げた。
「仕方ない、今宵はここに泊まるとしよう」
妖ノ宮の手が止まった。
鳩羽から視線を逸らしながら、
「そ、そうね。こんなお天気じゃ外には出られないし…………」言い訳のように呟くと、最後の一口を飲み干した。
湯のみを置くと、いつもの調子で話しかける。
「じゃ、食事にしましょう。もう夕餉の刻限よ」
雨は相変わらず激しい音を立てて地を洗い流していた。
「はい、まだお部屋はございますよ」
宿の女将は愛想良く二人を迎えた。
鳩羽が交渉している間、妖ノ宮は珍しげにあたりを見回した。このようなところにとまる機会はめったに無い。
小さいが居心地よく整えられた宿の中は、旅の途中らしき人々で溢れていた。
大きな荷物を抱えた商人らしき男、旅装束に身を整えた親子連れ。
(妖ノ宮……?)
振り返ると妖ノ宮の姿が見えない。
鳩羽が首を傾げていると、妖ノ宮は奥の間から鳩羽の元へ駆け寄ってきた。
「鳩羽!向こうで美味しい草餅が食べられるんですって。後で行きましょうよ」
思わず鳩羽が微笑むと、宿の女将もにこにこしながら、
「可愛らしい娘さんですね」と声を掛けた。
「は?いや、あれは…………」
「妻です!」
妖ノ宮が勢い良く叫んだ。
女将は顔を真っ赤にしている妖ノ宮とあっけにとられている鳩羽を見比べて、
「あら、ごめんなさいね。ほほほ、お仲のよろしいこと。ごゆっくりおくつろぎなさいませ」奥の方へ引っ込んでいった。
「ごめんなさい、おかしなことを言ってしまって」
俯いたまま、申し訳なさそうに呟く妖ノ宮に鳩羽は微笑みかけ、
「かまわない。もうすぐ私達は夫婦になるのだから」
妖ノ宮も鳩羽を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「………………………………」
「………………………………」
居心地の悪い沈黙。
妖ノ宮と鳩羽は差し向かいに座りながら、それぞれ別の方向を向いていた。
妖ノ宮はほんのり頬を染め、ひたすら目の前の床を見つめており、鳩羽は途方に暮れたように雨の幕に隠された庭を眺めていた。
部屋の中央には、二組の布団が並べて置いてあった。
「ごめんなさい、私が余計なことを言ったから…………」
「いや、謝ることではないが…………」
同じ問答を何度か繰り返した後、気まずい空気を振り払うように、鳩羽は提案した。
「そうだ、妖ノ宮、風呂で温まってくるとよい。そのままでは風邪を引く」
妖ノ宮ははっとしたように顔を上げ、
「そうね!鳩羽も入った方がいいわ。私よりもっと雨に当たったんだもの」
ばたばたとあわただしく支度を整えると、妖ノ宮は部屋を飛び出していった。吐息をつくと、鳩羽もゆっくりとその後を追う。
「………………………………」
「………………………………」
一度部屋を出たからといって、何が変わるわけでもなく、彼らは再び気まずい沈黙の中にあった。
当惑したまま部屋の中を眺めていた鳩羽は思い立ったように部屋の隅に行き、衝立を持って戻った。
「これを間に立てておこう。このままではあなたも眠れまい」
「そ、そうですね、じゃあ……」
安心と失望の入り混じった複雑な表情を浮かべつつ、妖ノ宮は布団を引いて隙間を作った。そこに鳩羽が衝立を置く。
「これでいいだろうか」
「はい、でも」
ついたての陰から顔をのぞかせて、妖ノ宮は、
「まだ、そっちにいてもいいでしょう?」懇願するように鳩羽を見上げた。
重ねた手を引き寄せて、鳩羽は愛しい姫を腕の中に抱き寄せた。
雨音は、徐々に穏やかな音色へと変わっていった。br>
衝立の陰で着物を脱いで、妖ノ宮は布団をめくった。
「妖ノ宮」
「え!?」
ふいに名前を呼ばれ、身を硬くして振り返る。前の前に、ひらひらと白いものが舞い降りてきた。
蝋燭の光に照らしだされたのは、薄紅の桜の花。そっと両手に掬い取る。
衝立の向こうから、鳩羽の声がした。
「服に張り付いていた。このようなものでも、あなたなら気に入るかもしれないから」
「ええ、とても綺麗ね。ありがとう、鳩羽」
灯りを消し、暗闇の中に横たわりながら、妖ノ宮は暖かな気持ちで今日一日を振り返っていた。
この幸福な一日のことはいつまでも思い出として残るだろう。それに宣ついたての方に顔を向ける。
すぐそばに鳩羽がいる。これからは、ずっと一緒なのだ。雨音を子守唄に、妖ノ宮は幸せな眠りに落ちた。
鳩羽は落ち着かない夜を過ごした。
触れた頬の柔らかさや湯上りの芳香を思い出すまいとした。まだ正式な夫婦となるのは先の話である。
部屋を別にすればよかったのかもしれないが、それはまた別の意味で心配である。
ふと、桜の花を与えた時の彼女のやさしい口調を思う出した。先ほどもきっと、妖ノ宮は幸福そうな笑顔をしていたのだろう。あの桜の木の元に射たときと同じように。
大きな幸福感が、鳩羽の全身に広がった。
(お休み、妖ノ宮)
妖ノ宮に遅れることしばし、鳩羽もまた、安らかな眠りに落ちてゆく。
2日目へ